「正しさ」の鎧を脱いだ先に|2026長期インターン(びーん)

はじめまして。今年度だいだらぼっちに長期インターンシップ生として参加しているびーんです。

 

 最初に自己紹介とここに来た経緯をお話しします。

 私がだいだらぼっちに参加した理由は、「本当に社会で必要な生きる力とは何か」を自分自身で確かめたいと思ったからです。

 私は大学で教育学を学び、「なぜ人間に教育が必要なのか」という問いについて考えてきました。大学の授業はとても興味深く、多くの知識や理論に触れましたが、学べば学ぶほど、その知識が実際の暮らしとどのようにつながっているのかを知りたいと思うようになりました。また、多くの情報を知識としてもっていても、「あなたは何を大切にして生きているのか」「あなたはどう考えるのか・どうなりたいのか」と問われたときに、自分の言葉で答えられず、自分の芯がわからないことにも気づきました。また、この社会で生きるために本当に必要な力は何なのかをもっと考えたいとも思っていました。

大学を休学して学ぶことを先に決め、具体的にどこで学ぼうかと迷っていた時に出会ったのがグリーンウッドでした。「できるを持ち寄る社会」や「大人もこどもも同じ一人一票をもつ」という考え方が腑に落ち、誰かが用意した正解に従うのではなく、自分たちで暮らしをつくっていく。コンクリートで舗装された道を安全に速く進むことを求めるのではなく、自分たちで大きな草原に道を拓くようなワクワク感を味わえそう、そんな環境に身を置いてみたいと思い、長期インターンシップに応募しました。

 実際に16人のこどもたちとの暮らしが始まり、日々驚きと爆笑と、”じーん”とすることの連続です。

 まず衝撃を受けたのは話し合いの多さです。4月は毎日話し合いをしていたと言っても過言ではないくらい全員で円を作り、時間を共に過ごしました。私の経験してきた話し合いは、あらかじめゴールが決まっていたり、時間で打ち切って妥協案をつくることで終わってしまうことが多くありました。自分が話し合いに参加しなくても誰かが何とかしてくれるだろうと、話し合いの輪に入らなかったり、自分の頭で自分事として考えたりすることをめんどくさがり軽視していたこともありました。しかし、ここでの暮らしはすべてのことが他人事ではなく、自分事です。去年のやり方をそのまま引き継ぐわけでもなく、大人が決めたルールに従うわけでもなく、「今年ここで暮らす私たちはどんな暮らしをしたいのか」を大切にしながら話し合い、決める。そして、決まったことを守りながら暮らし、困ったことがあれば決まったことをもう一度見直すことの繰り返しです。

例えば、お風呂焚きの担当を決める場面でも、

・小学生の方が帰宅が早いから、担当しやすいのではないか

・1年目の人は不安もあるから、経験者と一緒にしたほうがよいのではないか

・焚口に人が集まりすぎると危険だから、人数制限を設けたほうがいいのではないか

など、さまざまな意見が出されます。どの意見にも必ずその人なりの根拠や考えがあり、考えて言葉を伝えようとしていることが言葉と姿勢から伝わってきます。「~だから」という部分は声に出されることもあれば、自分の中にとどまっていることもあります。言いたいことがまとまらずぐしゃぐしゃだけれども伝えてみるチャレンジをする人もいます。だからこそ、お互いの声に耳を傾けて、どんな想いをもって言葉を発しているのかを考える姿勢の大切さに気づきました。

 こうした暮らしの中で、私自身が考えさせられたことがあります。それは、「意見をもつこと」と「正解をいうこと」は違うということです。

 泰阜村に来るまでの私は、自分の意見を伝えることが好きではありませんでした。発言する以上は正しいことを言わなければならない、根拠が十分でなければ口に出してはいけない、と無意識のうちに考えていたように思います。また、だいだらぼっちに来た直後はインターンという立場でありながら一人の相談員として参加している以上、責任ある発言をしなければならないのではないか、という思いもありました。そのため、自分の中に違和感や迷いがあれば、「自分が間違っているかもしれない」と考えて意見を引っ込め、言えなかった自分に後悔し、尾を引くことばかりでした。

 実際に一か月を過ごしてみて、自分が意識しないところで「こう在らなければならない」と、脳裏に刷り込まれている言動や行動がまだまだたくさんあることを実感しています。私にとって発言することは、大繩のようなタイミングを見計らわないとできないものでした。しかし、「正しいかどうか」を考えすぎると、自分の本当の気持ちが伝わらないことにも気づきました。今までは怖くて一歩目が出なかったけど、だいだらぼっちに来て、うまく飛べるかわからなくても一歩踏み出してみることに前向きになれる自分がいること、とにかく入ってみるしかないと気持ちを切り替えられるようになったことに気づきました。 それは、ここでの日常では、こどもたちや相談員が小さなチャレンジに挑戦する姿がたくさんあるからです。意見がまとまらなくても、とにかく口に出してみるこどもたちの姿を見て、「ちゃんとしてから話さないといけない」と考えていた自分との違いを感じました。こどもたちや相談員の姿に背中を押されながら、自分も少しずつ変わり始めているのだと思います。

 だいだらぼっちでの話し合いを通して求められているのは、社会一般でいう「正解」ではなく、「私はこう思う」「私はこう感じる」という一人ひとりの感覚です。もちろん、その意見が採用されるとは限りません。しかし、自分の感覚を言葉にして伝えなければ、想いは伝わらず、16人で決めて16人で暮らすことにはなりません。話し合いは16人と相談員全員の「いいと思います」という言葉によってのみ進みます。一人ひとりが何を想って、「いいと思います」と発しているのかを感じ、考えていこうと思います。

大切なのは最初から正しい答えを持っていることではなく、自分自身の考えや感じていることを少しずつ発信することなのだと学びました。

 また、暮らしの中で季節を感じることの楽しさを学んだ一か月でもありました。

 昨年までの私は、季節を春夏秋冬という大まかな区分でしか捉えていませんでした。しかし、泰阜村で暮らし始めてから、自然がもっと細やかに変化し、草木や花が季節の変化を私たちに伝えてくれていることを知りました。春にはコゴミやコシアブラ、セリなどが時期を少しずつずらしながら芽吹きます。どの植物がいつ出てくるのか、どの状態が食べ頃なのかを、だいだらぼっち2年目以上のこどもや相談員・地域の方々は当たり前のように知っています。

ある日、コシアブラを採りにあんじゃねの森へ行った時のことです。行きは「コシアブラを採る」という目的に向かって歩いていたため、周囲の景色をほとんど見ていませんでした。しかし帰り道、誰かが「え!たくさんワラビ生えてるじゃん!」と言ったことで、行きと同じ道がワラビの宝庫に変わりました。行きは5分ほどで通った道でしたが、帰りは20分近くかかりました。どれが柔らかくておいしいのか、どれが育ちすぎているのかを一つひとつ見ながら進んだからです。

その時感じたことは、知識とは単に覚えるものではなく、暮らしの中で使われることで意味をもつということでした。そして、その知識の出発点には小さなイワカンや、日々の暮らしの中で生まれたワクワクの種があります。自然の変化に気づき、立ち止まり、観察し、人に教わりながら確かめていく。そして、自分がしたことを語る。その繰り返しが暮らしを豊かにしているのだと感じています。

 まだ、だいだらぼっちの暮らしが始まって1か月ほどであり、「生きる力とは何か」という問いに対する答えは見つかっていません。しかし、自分の感覚を言葉にし、その感覚を大切にしながら暮らしをつくっていく日々の中に、その答えへ近づくためのヒントがあるように感じています。

また今日も、「いつもどおり」という名の贅沢な日を、こどもたちと共に大切に過ごしていきます。