被災したこどもと一生向き合う ~10年目の3月11日を福島で迎えて~

福島にいる。
10年目のタイミングに、どれだけの意味があるのか。
しかもこのコロナ禍のときに。
外部の人が勝手にそう想っていることじゃないのか。
結局は、福島の人に負担をかけることになるんじゃないか。
そんな想いも強かった。
それでも、今、福島に来ることができたというその意味を、しっかりと次の世代に伝えていかなければ。
だから、私の教え子たち(立教大のゼミ生)を連れてきた。
当時まだ小学生の学生たち。
この後の世代は、当事者意識、当時代意識がさらに薄れていってしまう。
そんな危機感もあった。
コロナ禍を言い訳にしている場合でもない。
依然として放射線量が高い地域もあり、学生を同行させることに逡巡もした。
が、10年を迎える今がそのタイミングと、学生とやりとりを重ねて実現した。

2月の地震で被害を受けた東北新幹線。
新白河駅を過ぎると、極端な徐行運転になり、福島までの所要時間はざっと1時間は遅くなっただろうか。
影響を受けているとはいえ、全線開通は東北のひとびとの希望でもある。
福島駅に降り立つ。
10年前に降り立ったときは、深呼吸することに気を遣う自分がいた。
今はマスクで息を潜めている自分がいる。
あの頃と何が違うのか、どんな変化があるのか。
いつの世も変わらずに確かに時は重ねられていく。
その時の積み重ねに沁み込む暮らしの息遣いや想いは、たまに来る自分には感じ取れない。
あの日以来、東北に足を運ぶこと50回を数える。
それでも、この地に暮らしていない身が、もどかしい。

大学1年の時のレイ。山賊キャンプのボランティア。

福島に着いて、真っ先に会ったのは、レイだ。
東日本大震災のとき2年間、「暮らしの学校:だいだらぼっち」で受け入れた子だ。
放射能から逃れて信州泰阜村にやってきたのは小6の時。
今はもう21歳の大学生!

初めて会った日のことを鮮明に覚えている。
あの年の5月。
田植をしている時に、華奢な身体のレイが泰阜村にやって来た。
その細さに、本当に1年間、やっていけるのか心配だった。
その後、2年間、泰阜村民となる。
泰阜村の支援を受け、村民の皆さんから愛されたレイ。
今思えば、身体は華奢だったけれど、芯が強かったな、レイは。

2011年9月 小6のレイ(真ん中)

小6のレイ(右) 泰阜村のお米を、福島に贈る

中1のレイ(真ん中) 北東アジアのこどもキャンプに一緒に行ったな、そういえば

中2のレイ 五平餅と

中3のレイ 当時の松島村長に「泰阜村に帰省しました!」のあいさつ 村長めちゃくちゃ喜んだ(笑)

高校生になった時、レイは「信州こども山賊キャンプ」のボランティアに参加した。
熊本地震の被災児童を招待したキャンプに「恩返しの意味を込めて」と。
それを遠い東北から毎年続けてくれた。
私の立教大学の授業「自然と人間の共生」でもゲストに来てくれ(オンラインだが)で、骨太な話もしてくれた(笑)
1年前に、沖縄に二人旅もした。
レジャーではなく、沖縄のアイデンティティをめぐる旅だ。
ハンセン病の隔離施設にも立ち寄り、国策のしわ寄せの現実を直視した。
そんな経験が、レイの芯をさらに強くしていく。
おとなしいけど挑戦を続けるレイ。
自ら芯を強くしていくレイが、私は大好きだ。

高1のレイ 山賊キャンプボランティアに

高2のレイ 山賊キャンプボランティアに

大学2年のレイ ハンセン病施設(沖縄愛楽園)に一緒に行く

立教の教え子がレイと会った。
すぐに仲良くなり、SNSアドレスを交換している。
微笑ましい。
レイが交友を広げていくことが、うれしい。
学生が、被災地の同年代の話を聴いて、そして友人になっていくことも、うれしいな。

2021年3月10日 大学3年(21歳)のレイ(前列右)とお父さん(後列左)と、学生2人

私の役割はすでに、被災地の今のこどもを支えるステージから、あの時支えた被災青年を次の学びへといざなうステージに深化している。
レイの学びと、学生の学びが、時を超えて連なっていく。
その学びの連鎖を支えていくのだ。
支援が産み出した支え合いの縁を、丁寧に紡いでいく。
それを私は「支縁」と表現している。
私は一生、レイと向き合う。
それが「教育を通した支援」であり、「支縁」なのだから。

福島でレイに再会したことが、中日新聞に紹介された。
以下、本文を転記しておく。

中日新聞 2021年3月12日

被災のこども成長に感慨
山村留学に招待 交流今も
泰阜のNPO代表 辻さん

 泰阜村のNPO法人グリーンウッド自然体験教育センターは東日本大震災後の5年間、被災した小中学生を山村留学やキャンプに招待した。当時の子どもたちなどとの交流は今も続く。代表の辻英之さん(50)が10日から12日までの日程で、福島県を訪ね、成長した姿を確かめている。

 「自然の恐ろしさに傷ついた子どもたちに、もう一度自然の素晴らしさを感じてほしい」。同法人は2011~15年、福島県から計250人の子どもたちを「信州こども山賊キャンプ」に招待。福島などから3人の小中学生を2~5年間の山村留学にも受け入れた。

 故郷に帰った参加者の中には、進学や就職してから、ボランティアとして戻ってくる人もいる。16年の熊本地震で被災した子供たちを招待した際も5人が手伝いに駆けつけてた。

 10日に辻さんが訪ねた福島市の大学3年生曽根レイさん(21)もその一人。原発事故の後、自由に外で遊ぶこともできなかった中、両親の勧めで山村留学に参加。小学6年から中学1年までの2年間を泰阜で過ごした。

 地元の同級生たちが体育の授業も満足に受けられない状況の中、自然に囲まれ、泥まみれになって思い切り遊べる日々。曽根さんは、電話での取材に「自分たちで考える共同生活の中で、多くの学びや成長があった。受け入れてくれた村には感謝しかない」と話す。

 今では泰阜村は第二の故郷。「村やグリーンウッドへの恩返し」と、福島市内の高校に進学してからは、毎年夏休みに訪れ、ボランティアとして山賊キャンプを支える。
 20年は新型コロナウィルス感染拡大の影響で、山賊キャンプは中止に。ボランティアにも来られなかった。「去年は何もできず歯がゆかったが、今後も学んだことを今の子どもたちにつなげていきたい」と熱を込める。

 辻さんは今回、約1年ぶりに曽根さんと再会。講師を務める立教大のゼミ生らも同行した。曽根さんは、ゼミ生らから受ける震災の体験などの質問に自分の言葉でしっかりと答えていた。「きゃしゃだったレイが頼もしく成長した」。古里の自然の驚異に向き合い、信州の山村で力強く育った若者の姿に、辻さんは感慨を深めた。

代表 辻だいち