母校の後輩に夢を語ろう

母校の大学から特別講義のお願いが来た。
ここ10年は、本職の他に大学で教鞭をとり続けてきた。
とりわけ今年度はオンライン授業で全国あちこちからもお呼びがかかる。
それでも母校から依頼が来るというのはなんだかこそばゆい感じがしてフシギな感覚だ。
ま、率直に言えば「うれしい」ということだろう(笑)

私自身の人生というかどう生きてきたのかについても話をすることになるらしく、参考資料を学生さんに送らなければならない。
今の時代は本当に便利で、この記事のURLアドレスを学生さんに送れるだけで事が済む。
学生さんへの配布資料を大量に印刷することもない。
ということで、2年前に毎日新聞サイトで紹介されたインタビュー記事を改めてブログにアップする。
もう見たよ、読んだよ、という人には申し訳ないが、私の母校の学生さんのためだと想ってあたたかくご理解いただきたい。

なお、この記事は毎日新聞のウエブサイトでも紹介されている。
毎日新聞サイト → こちらへ
ただ、有料会員のページでもあるので、お許しをいただき、以下に本文を紹介する。

2018年11月9日 毎日フォーラム「あしたの日本へ

村には人を育てる「力」がある

長野県泰阜村のNPO法人グリーンウッド自然体験教育センターは、親元を離れて村の小学校に通う「暮らしの学校だいだらぼっち」や「山賊キャンプ」を通して、子どもたちの「生きる力」を養っている。若い世代が人口約1600人の村に集い、「教育」を基軸に据えた地方創生戦略としても注目されている。大学卒業と同時にこの活動に飛び込んだ代表理事の辻英之さんに、活動の歩みと次世代を担う子どもたちを育てる「地域の力」について、語ってもらった。(聞き手・本谷夏樹)

--大学は北海道。ハンドボール部の主将だったそうですね。

辻さん 中学からずっとやっていました。自然が好きで、当時の知床ナショナルトラスト運動にひかれて、あえてだれも知り合いのいない北大に進学しました。部活の合間を縫ってバイクで道内を巡りましたが、自分が将来、例えば国立公園のレンジャーになるよりも、自然を大事にする人を育てる仕事の方が向いていると思い、教育学部を選びました。所属したのは体育方法論のゼミでした。走ったり投げたりする能力だけで評価すれば体育ぎらいの子どもを増やすだけで、それよりも運動が苦手な子どもにも体を動かすことの喜びを感じてもらうことが重要だ、ということを学びました。

--いろいろな子どもがいます。

辻さん 優劣を競う運動部とは違う評価の基準で、弱者の立場に立つという考えは今の活動につながっています。さらに、ボランティアで児童養護施設の児童生徒の家庭教師をした経験が大きかったです。さまざまな家庭の事情で入ってきて、学力が低く、大人への信頼感もない子が多く、とても衝撃的でした。部活は4年生秋の全日本インカレまで続き、就職活動は全くしていませんでした。勉強もしていなかったし、このような状態で教員として社会に出てはいけないのではないかと思っていました。

--「だいだろぼっち」との出合いは。

辻さん たまたまアウトドア関係の雑誌で「スタッフ募集」の記事が目に入り、4年生の6月ごろ、教育実習で福井県に帰った折に立ち寄って活動の様子を見学して大変感銘を受けました。9月ごろ、当時の「ダイダラボッチ協会」代表の村上忠明さんに「学歴はいらない。大学を中退してでも入りたい」などと生意気なことを書いた手紙を出したら、村上さんからは「そんないいかげんな者はいらない。せめて卒業してから来なさい」と諭されました。とても温情のあるアドバイスをいただき、それで部活を引退した秋以降に何とか論文を書き上げて卒業し、1993年4月に泰阜村へ行きました。

--どのような仕事でしたか。

辻さん 都市部の子どもたちが山村で共同生活をしながら学ぶ活動(山村留学)は、今NPOの会長をしていただいている梶さち子さんが86年に始めました。僕が入った頃はまだ任意団体で、財政的に困窮していて運営の継続が危ぶまれていました。スタッフが少なかったので最初から山村留学やキャンプの企画運営の責任を負いました。月給は6万円で、遅配が続く時もありましたが、子どもたちと共同生活をしていたのでお金を使う必要がなく、なんとか生活できました。少しずつ貯金して、5年後に北海道で中学教師をしていた今の妻を呼び寄せて結婚しました。NPO法人の財政担当してもらっています。

--村の人との関わりは。

辻さん 99年に文部省(当時)が「生きる力」を育成する「こども長期自然体験村」という事業を打ち出し、我々の活動実績もあって泰阜村が手を挙げました。村全体で25人からなる実行委員会を立ち上げ、アマゴ養殖で成功した実績のある木下藤恒さんに委員長になってもらいました。ところが木下さんは、我々若造の活動に関わるのは不本意だったようで「子どものことなど分からん」と、当初は乗り気ではなかったのです。
二十数人の子どもたちが村内で2週間暮らし、川で魚を触ったり、炭焼きをしたり、ブルーベリーを摘んだりと、地元のおじさん、おばさんと交流しました。終わった後、木下さんが「生まれ変わったら教師になりたい」と言い出したのです。子どもたちは口々に「水がきれい」「星がきれい」「食べものがおいしい」と言って感激してくれたのに、木下さんたちの世代は自分の子どもたちに村のいいところを何も教えずに都会に出してしまった、と反省したのだそうです。今78歳になる木下さんは、僕が非常勤講師をしている立教大学で若い学生に村の生活を語っていただいています。

--村の人たちの意識も変わった。

辻さん 毎年夏と冬の山賊キャンプには1000人以上の子どもたちが集まり、「だいだらぼっち」では十数人は1年間、村の小中学校に通います。食材のほとんどは、地元の農家から買い取ります。子どもたちは食事の後、農家を訪れて「とてもおいしかったです」と感謝します。そうすると、農家はより安全な作物を作ろうと、自ずと農薬と化学肥料を減らして手をかけて栽培するというサイクルが回り出しています。子どもたちから大きな刺激を受けているのです。

--このキャンプはアジアにも広がっています。
辻さん 村上さんが代表理事で僕が副代表理事のNPO法人「こどもたちのアジア連合」が主催しています。2001年から中国、韓国、北朝鮮、モンゴル、極東ロシアの環日本海6カ国の子どもたちが毎年それぞれの国に集まって1週間のキャンプをしています。今年は10月に中国・大連で開きました。公用語は開催国の言語にしていますが、子どもたちは身ぶり手ぶりで仲良く一緒に料理したり、すぐにコミュニケーションができるようになります。この交流が北東アジアの平和の礎になってくれることを期待しています。

--地域にとってますます重要な活動ですね。

辻さん ボランティアの大学生たちも村で学び合う「泰阜ひとねる大学」を昨年立ち上げました。将来的には泰阜村に本物の大学を作りたいと強く思い、現在準備を進めています。また、国内の山村留学も、長野県内などから参加する子もいるなど、以前のような都会と田舎の二元的な関係ではなくなってきました。これからは、泰阜村の子どもたちを他の地域に留学させて、外から自分たちの村の良さを感じてほしいと思っています。国内で10地域程度が協働してお互いの子どもたちを交換するオールジャパンの仕組みを作れないかとも思っています。もちろんその向こうには、オールアジアでの仕組みのステージも夢みています。ブーメランのように、子どもたちを強い力で押し出してやれば、大きく育って戻ってきてくれると思います。そのような人材還流が、長い目でみて人を育てる「地域の力」を持続させていくことにつながるのではないでしょうか。

つじ・ひでゆき 1970年福井県生まれ。93年北海道大教育学部卒、「ダイダラボッチ協会」入り。2001年「NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター」設立。09年代表理事。現在、長野県泰阜村総合戦略推進官。青森大客員教授。立教大、名古屋短大、飯田女子短大の各非常勤講師。NPO法人こどもたちのアジア連合副代表理事・事務局長。著書「奇跡のむらの物語~1000人の子どもが限界集落を救う~」(農文協)など。

母校は札幌。
コロナがなければ久しぶりに帰れたのになあ。
まずはオンラインで後輩たちに夢を語ろう。

代表 辻だいち