小学生が大学生に暮らしの指導をする。 そんな大学があってもいい。

地元の飯田女子短大。
今年で、講義を受け持って10年。
最初に話を伺った時は、「自分に大学生の授業なんかできるのかなあ」と不安だった。
しかも、3科目もやってくれという。
対象は養護教諭、いわゆる学校の保健室の先生を養成するコースだ。
確かに私はこどもたちと四六時中向き合うことを仕事にしている。
しかも暮らしの学校「だいだらぼっち」や山賊キャンプなど、宿泊型の活動だ。
保健室のような資器材が整う環境での学びだけではなく、野外でしかも宿泊型で、何が起こるか分からないし資器材もない環境に潜むリスク。
このリスクを、どのようにマネジメントしているのかは、「ぜひ来てほしい」と短大の教授に言わせるだけのものがあったのだと想う。
以来、10年間、毎年毎年、丁寧に地元の学生と向き合ってきた。

今期(2019年度後期)は2科目受け持ってきた。
ひとつは「日常に潜むリスク」について、実践者の立場から伝える科目。
人数が手頃なので徹底的にアクティブラーニング型の授業運営。
しかも内容はNPOグリーンウッドの多彩な実践から徹底的にリアルな学び。
普段は一方的に聞くスタイルの授業が多いのか、学生さんは参加型スタイルの授業は「あっという間に終わる」らしくそうで、なんだか楽しそうだっだ。
泰阜村のNPOグリーンウッドにも来て、実際の現場で学んでもらう校外実習。
そこでは、大胆にも暮らしの学校「だいだらぼっち」の小学生が彼女たちを指導する場面もあった。

小学生が、女子大生に薪割りを指導中

この日は朝から夕方まで、来週に控えた陶芸登り窯焚きに向けて、ひたすら薪割作業に窯づめ作業。
ニワトリ小屋の掃除や修理も。
オノやナタの使い方、1日の時間の使い方、五右衛門風呂を焚くときの注意、こどもたち主導のごはん作りでの衛生的注意点などなど、女子大生が小学生から学んでいる。
すこぶる日常である。
少なくとも暮らしの学校「だいだらぼっち」にとっては。
でも、学生にとってはもう、まるでディズニーランドに来たようなものだろう。
それくらい、新鮮で楽しかったに違いない。
その非日常の学びが、彼女の日常に落ち着く学びになるには、もう少し時間の熟成が必要になる。
すぐにはわからないだろうな。
それでいい。
学びってそういうものなのかもしれない。
じわじわと発酵していくような。
混沌さから滲み出てくるような。
小学生が大学生に暮らしの指導をする。
そんな大学があってもいい。
学びとはかくも多様で深く、そして混沌から生まれるオルタナティブなものだと確信する。
最後のレポートには、力いっぱい楽しく学んだ、という字が暴れていた(笑)

40人分の食事の量をどうさばくか? こどもが大学生におしえている

右から2人目の小学生が指導している

もうひとつは「救命救急法国際資格(MFA)」を取得してもらう科目。
普段は時間との闘いとなるこの資格発行講習も、大学の講義に組み込まれるとものすごくゆっくりじっくりと進めることができる。
学生の素朴な質問を丁寧にひろって、私にとっても充実した講義になった。
どれだけ救命救急の知識や技術を持っていても、それをいざという時に使えなければ意味がない。
この科目は、知識や技術の取得はもちろん、それを「使おう」「やろう」という気持ちを手にしてもらう内容だった。
それを一番感じたのは、学生だった。
こちらも最後のレポートには、やる気が生まれた、という字が躍っていた。

暮らしの学校「だいだらぼっち」に留学中の大学生(同じく養護教諭の専攻)が、短大に登壇した

こういう、肌で触れ、頭で考え、学びを生み出す、そういう授業を学生は求めているともいえる。
講義室で多くの学生に伝えるのも楽しいが、少人数でじっくりと一緒に学び合うスタイルが私にとっては本当に楽しい。
教室や保健室とはまた違った学びが、彼女たちの質の高い満足を導いた。
その満足が次の行動へ駆り立てるだろう。いつか彼女たちが、泰阜村の養護教諭として赴任してきてほしい。

さあタマゴタチよ、いよいよ社会に出ていくんだな。
君たちなら大丈夫。
きっと豊かな価値を生み出していける。
あんじゃあねえっつうことよ(大丈夫だという意味の方言)

代表 辻だいち