こどもの未来を支える ~福島と信州の豊かな関係が上書きされていく~

今回の福島行脚では、多くのひとびとに再会した。
福島のこどもたちを、信州泰阜村に送り出してくれたひとびとだ。

福島市では、すでに記事で紹介したが、暮らしの学校「だいだらぼっち」に2年間預かったこどもとそのお父さん。
こどもといってももう21歳。
私にとっては、暮らしを共にした仲間であり、教え子であり、娘のようなものだ。
詳しくはこちらの記事へ

次に、飯舘村の女性と会う(写真はNGだ)。
あの日から村を出て福島市に住む。
山賊キャンプに飯舘村のこどもを招待する時の担当者だった。
子育てをする同志としてもやりとりしてきた。
久しぶりに会って、よもやま話をする。
その場に、私の教え子(立教大学)も同席した。
他愛もない会話に、10年の葛藤と希望が交錯する。

鴫原さん(右)と学生たち

飯舘村では、こちらもすでに記事で紹介した鴫原さんに会う。

帰還困難区域の未来を背負う立場で、この10年、常に険しい顔をしていた。
でも村のこどもの未来を想う心優しい人だ。
同行した私の教え子(立教大学)に、まるで孫に話しかけるかのように、丁寧に対応していただいた。
飯舘村から山賊キャンプに参加したこどもたちも、この学生たちと同じくらいの年だ。
全国に散り散りになっていると聞く。
いつかまた信州泰阜村の地で、あるいは福島飯舘村の地で、再会できることを信じている。

いわきの少年(右) 2011年夏に山賊キャンプに参加した

いわき市では会いたい親子がいたが、再会は叶わなかった。
2011年4月、やっと電話がつながった親子に、会いにいった。
高速道路はでこぼこで、支援物資満載の軽ワゴンを、料金所のおっちゃんは「ありがとう! 通りな!」と素通りさせてくれた。
津波被害の光景に言葉を失う。
その動揺のまま、親子の家に。
2010年に山賊キャンプに参加経験のあるこどもだった。
それから5年、いわきを含めた福島のこどもたちを250人、山賊キャンプに招待した。
熊本地震のこどもを招待したキャンプに、大人になった彼がボランティアで参加した。
SNSではやりとりしているが、顔を会わせるのはコロナもあってなかなかない。
次に会える日を楽しみにしておこう。

2018年にボランティアとしてかえってきた(後列の青年)

いわき市にほど近い山間部に、鮫川村がある。
ここには文字通りの盟友がいる。
進士徹さん。
あぶくまエヌエスネットという、まあ、ひらたくいえば同業者である。
自然、地域、暮らし、こどもなど、多くのキーワードで価値観を共有できる、数少ない盟友だ。
震災直後の4月、進士さんのところに来て、無事を確認した。
いや、その瞬間から「福島のこどものために」と彼は燃えていた気がする。
私もまた、信州から「福島のこどものために」と駆けつけたのだから、意気投合するのは自然の流れ。
以来10年、突っ走ってきたなお互い、という話を、久しぶりにお会いしてたっぷり話せた。
支え合いの縁を丁寧に紡ぐことを、私は「支縁」といっている(私が造った言葉)。
同行した学生たちはその「支縁」の意味を、少しだけわかってくれたかもしれない。

2021年3月 進士さんとツーショット。いやー歳とったな(笑)

2011年4月 進士さんとツーショット 若い!

一晩泊まらせていただき、学生もすっかり進士さんの取り組みを気に入ったようだ。
1人(4年生)は夏前に1か月ほど、ここに滞在する予定。
その挨拶もかねて来たのだ。
もう一人(2年生)が「いいなー、私も来たーい」とうらやましがっている。
そして卒業生の一人は、私の授業の教え子でもあり、福島県出身のタレントでもあり、数年前に進士さんと一緒に仕事をしたこともあるという。
「念願かなって、進士さんのところに来れた!」というわけ。
こうやって次の縁が紡がれていく。

最後に鮫川村役場に立ち寄る。
もちろん鮫川村のこどもたちも山賊キャンプに招待した。
その流れで、鮫川村の少年野球チームを泰阜村に招待することにもなった。
当時私が泰阜村少年野球の保護者会長。
はるばる福島から信州までバスで来て、野球の試合をやったのだ。
当時のキャンプ招待担当者と、少年野球のコーチが夫婦で、どちらも役場職員。
顔だけでも合わそうよ!と立ち寄ったら、まさかの村長室に通され、村長と懇談となった。
聞いてないよ!と想いつつ、このどうなるかわからない混沌とした流れこそ、豊かなものだとつくづく想う。
そういえば、山賊キャンプに招待する際に、泰阜村の副村長が鮫川村まで駆けつけてくれた。
「大事な子どもを預かるんだから、信頼されなきゃね」と。
その副村長が、今、泰阜村の村長になっている。
鮫川村の村長と、今後、小さな山村同志、支え合いの縁を紡いでいきましょう、と約束して別れた。
まさに「支縁」だ。

鮫川村長(右から3人目)と

右のご夫妻が、キャンプと野球のご夫妻

帰りに立ち寄った白河ラーメン屋。
人気店でなかなか座れないという。
この店に、鮫川村の村長が先回りして予約してくれていた。
しかも、われわれが到着する時間をみはからって!
ラーメンの味もうまかったが、鮫川村のひとびとの粋な心遣いに、学生たちが感動していた。

こどもと向き合うひとびとは、10年たった今も、とても気持ちの良いひとびとだった。
それどころか、皆さん、グリーンウッドの窮状をわが身のように心配してくれた。
涙が出る想いだ。
25年前、私は国際NGOの活動でバングラデシュに渡航した。
阪神大震災直後のタイミングだった。
世界最貧国といわれた当時のバングラのひとびとが皆、「神戸は大丈夫か」と支援物資をこの手に預けてくれた。
貧富は関係なく、困ったひとを支える、ということを思い知った。
東北のひとびとと丁寧に関係を紡いできたのは、本当の意味での「支え合い」なんだと感じる。
今からまた豊かな関係が始まる予感がする。
いや、始めなければならない。
こどもたちの未来に向けて。

帰りに福島の日本酒を買い求めた。
福島に来たら必ず買うお酒がこれ。
酒蔵が津波でやられ、原発から逃れた。
それでも復活している。
飲むことが「支縁」だ。

また来よう。

代表 辻だいち