あいつ、今ごろ何やってるかなあ ~ミャンマーの民主化に想う~

30年くらい前を少し想い出してみる。
1988年は高校3年生だった。
89年から89年の正月、昭和の歴史が終わった。
89年は、中国で天安門事件、ヨーロッパではベルリンの壁が崩れた。
その後、世界の社会主義が勢いを失うと同時に、日本も政権交代。
激動の時代だった。

その1988年だが、実はミャンマーで軍事政権が誕生している。
今、時のひとのアウンサンスーチーさんは、この時の民主化運動で象徴的な動きをした人だ。
2021年、再びミャンマーで軍事政権が誕生した。
それは30年も前から繰り返されていることでもある。

1993年、私は札幌から泰阜村に来た。
今もそうだが、当時もわれわれグリーンウッドは極貧状態。
自分にできることはないかと始めたのが、第3世界の国々との国際交流だ。
東京・大阪・山口のフェアトレード(当時は斬新!)を進める市民団体と協働して、この小さな山村にアジア・アフリカの文化団体を毎年招いた。
95年夏にミャンマーから音楽舞踏団を招いた。
小さな村の限界集落に、ホンモノのアジアの踊り子たちが舞う。
それを小さな村の実行委員会が運営し、当時は大きく注目もされた。
団体の収入にはまったくならなかったが。

ミャンマーの音楽舞踏団が1週間以上、泰阜村に滞在する。
言葉をどうするのか、という壁につきあたるのは当たり前。
当時インターネットがまだそこまで普及していなかったと記憶しているが、何らかの手段でミャンマーの留学生の存在を知った。
「当たって砕けろ」で連絡をとり(でも、どうやって本人と直接連絡とれたんだろう???)、遠くまで会いに行った覚えがある。
留学生の彼に趣旨を説明すると一発快諾。
言葉の勉強だけではなく、事前に村に来て、ミャンマーの料理教室など文化的なこともやろうやろうと盛り上がった。
何度か顔を合わしやりとりするなかで、ミャンマーの政治の話になるのは自然のこと。
だけれども、そんな時は決まって彼は黙り込んだ。
「政治の話で黙り込むとは、日本の若者と同じだなあ」と、彼の様子を見て想っていた。
そんな浅はかな気持ちは、彼のひと言で砕かれる。

「辻さんのことは信頼する。でも、スパイがいるかもしれないから」

私も若く、まだアジアの政情を正確に理解していなかったこともある。
ましてや軍事政権など、日本では考えられないことだから、理解にも及ばなかったのだろう。
「自分の国では自由にモノが言えない。何をされるかわからない」
「日本でも、どこで諜報機関が監視しているかわからない。家族が危なくなる」
衝撃的だった。
もともと私は平和志向があった方だと想う。
が、私は彼との出会いから、急速に戦争・平和への関心が高まっていく。
いや、かきむしられるような平和への欲求が産まれていった。
そして95年9月、沖縄で米軍兵士による少女暴行事件が起こる。
日本やアジアを「平和だ」と決めつけて生きてきた自分が、心底情けなく思えた年だった。

ミャンマーはその後、曲がりなりにも民主政権が誕生して、変わる道程にあった。
が、これでまた振り出しに戻る。
この10年、世界を見渡すときな臭い動きが顕在化している。
香港はその一つだろう。
まっとうな世の中になるために発言した人が「政府への反逆」と収監されていく。
強引極まりない“口封じ”だ。
言葉を封じることは、ひとびとの尊厳を踏みにじることなのに、香港やミャンマーに限らず世界の大国指導者が先頭を切ってやっている。

日本はどうか。
声をあげることができるのに、あげない国民。
小さなことや些細なことにはめくじら立ててクレームまがいにコメントするのに、本当に大事なことには関わらず、沈黙を決め込む。
黙り込むことは、自ら口封じをしているのと同じで、自らの尊厳に対する自殺行為に等しいではないか。
こんなおかしな国があるのか、と本当に想う。

声をあげたくてもあげれない国がある。
黙ることを強制されている国がある。
日本は、ありがたいことに、声を上げることができる。
これは本当に素晴らしいことなんだと改めて思う。
女性蔑視発言だけじゃない。
沖縄、森友加計、桜を見る会、黒川検事長、贈収賄や嘘をつく国会議員、カタチだけの記者会見、なんにも答えない国会答弁、首相長男案件…
日本は、もうウンザリするほど国民を軽んじている。
ひとり一人の尊厳が馬鹿にされている、と本当に想う。

「声をあげる時だよみなさん」
この私の声に、ミャンマーの彼は今、なんと答えるだろうか。
彼にもう一度、逢いたい。

代表 辻だいち