だいだらぼっちの卒業生にインタビュー しゃもじ(1991・1992年度参加)

年齢差があるとどうしても縦の関係になってしまう。年齢も地域も男女も関係なく並列に共に暮らすことができる所は他に無いと思っています。

だいだらぼっちの卒業生・保護者にインタビューするこの企画、今回はだいだらぼっち6期生のOBしゃもじです。しゃもじは、だいだらぼっち6年目~7年目(1991~1992年度)に、小学4年生~5年生のニ年間をだいだらぼっちで過ごしました。 第一印象は、「ぽや~んとした」っていう表現がぴったり当てはまる感じ(ゴメン!)。小さかったので、マスコット的でもあったけど、どこか「本当の自分」を隠し持っている気配があったと記憶しています。
それではインタビュースタート!

ーしゃもちゃん(みけはしゃもじのことをずっとしゃもちゃんと呼んでいたのでこのまま呼ばせていただきます)こんにちは。早速ですが、先ずは簡単に自己紹介をお願いします。

1991年度、1992年度に小学4年生、5年生の時に参加していた、しゃもじです。だいだらぼっちには母親の薦めで行く事になりました。今はジュエリーやブランド品などの販売を支援する仕事をやっています。

ー販売の支援って、いまいちよくわからないのですが、具体的にはどんなことをしているのですか?差しさわり無かったら教えてください。

在庫を多く抱えていて販売が追い付いていなかったり、そもそもネット販売をやっていなかったりする会社の販売を代理で行ってフィーを貰う仕事です。

ー業者にしてみたら、自分たちが汗を流さずとも在庫がさばけるってことですね!なるほど、在庫のまま残っていたり処分されたりするよりずっといいですね。
ところで、しゃもちゃんが、今のお仕事に就こうと思った理由を教えていただけますか?

大学卒業して何年かしてから不動産の会社に入りました。そこがホワイト企業だったんです。ブラックじゃなく(笑)。公務員みたいに9時に行って17時に帰れる。残業も無いし有給も取れる。周りの友達は上場企業や外資企業に行って終電で帰る様な感じで皆「辞めたい」って言いながら仕事していました。その友達と給料変わらなかったんです。時給でいったら僕の方が圧倒的に良い。「辞めたくない^_^」そう思って幸せに暮らしていました。でも30歳位になった時に気付くんです。周りの友達がヒーヒー言いながら仕事してたのが力を付けて、それなりの役職に就いて、仕事が「生きがい」になっているのを。かたや僕はただただ楽だから働いています。お金の為に時間を売っている。1週間7日のうち、平日5日は楽しくなく、しょうがなく仕事して過ごしています。そんな時、財務のセミナーに行ったんです。そこでたまたま登壇していた社長が30歳で、僕と同じ歳だったんです。飲食店の社長でした。その時点でその社長は200店舗以上(!)経営していた。その人が「仕事が楽しくてしょうがない。土日休んでまた月曜から仕事するのが楽しみ」と、こどもの様に目をキラキラさせて喋っていたんです。「僕と真逆だ」って思ったんです。僕は土日の為に生きていた。そこでまた気付くんです。「あれ?平日が楽しくないって人生の5/7を楽しくなく過ごしているんじゃないか?」と。生き方を間違えているんじゃないかと。一年悩んで仕事を辞めました。次何をやるか決めずに辞めました。親、同僚、友達、みんな反対しました(笑)。それでも辞めなきゃいけないと思った。その後ラーメン屋とかパン屋とかゲストハウスとかやろうとして、どれも才能が無く途方に暮れていた時に、友人の会社に修行に行きました。そこがブランド品の買取販売の会社でした。社長は僕より4つも下で既に数億規模の会社でした。「この人になりたい」と思って今の仕事を始めました。この人になりたいとかこうなりたいっていうのがあればその環境に身を置くのが一番良いと思っています。

ーお仕事で大変だったことや困ったことはありますか?また、それらをどう乗り越えてきましたか?

揉めた時の交渉ですね。従業員や関係会社との関係の維持です。ネゴシエーションみたいなのが苦手であまり自分でサラリと乗り越えた事はないです。揉めたら高確率で仲違いしてしまう。上手くいかなかった事が沢山ある。でも結局人と人で、悪くなかった関係でも会わなかったりすると関係が悪くなるし、会社同士でも担当者が変わると全然関係が変わったりする。飲みニケーションとか会う、話すっていうのが重要なんだと本当に思います。コロナによってミーティングやら何でもオンラインでやるのが主流になっていっているけど、もちろんスゴく便利にはなっている部分は多いです。ですが情報の交換に関してはオンラインでできるけど、感情の所はオンラインでは無理だと思ってます。

ー仲違いになってしまった時にはどうするのですか?誰か助けてくれるのですか?

基本的に直接的に助けてくれる人はいないです。アドバイスを受ける事はよくあります。それは友達だったり母親だったりします。人との関わり方や倫理観などのアドバイスは母親から受けると「極めて正しいな」「この人の息子で良かったな」と心から思えます。「不動産が下がってる。早く家買いなさい」みたいなアドバイスには全然賛同出来ないですが(笑)。

ーこのコロナ禍で、難しくなっている「感情」の部分のやりとりは、どんな形で補っていますか?そこでの苦労や、こんなことがすごくうまくいった!なんてことがあったら教えてください。

質問への回答とちょっとズレちゃってるかもですが、基本的にマネジメントの部分は僕はスゴく苦手で出来ないと思っています。それを直す、よりも補う方が良いと思っていて、それは「そういうやり取りが得意な人を雇う」が解決策です。人には得意、不得意があって不得意な部分を伸ばすより、得意な部分を圧倒的に伸ばす方が価値が高いと思っています。プライベートの部分は「とにかく会う」しかないと思ってなるべく直接会うようにしてます。

ーお仕事をしていてよかったと思うことや一番の思い出などあれば教えてください。

ずっとお金の為、自分の為に働いていました。ある日従業員さんとご飯に行った時に「ご馳走様です。いつもお仕事ありがとうございます」とお礼を言われました。それがすごく嬉しくて、その時に自分の為だけじゃなく人の為になる事は自分の喜びにもなるんだと思いました。ずっと利己的に生きてきてそれは今もあまり変われてないけれど少しずつ利他的になれる様にしたいと思ってます。

ー「ありがとう」って、大切な言葉ですよね。
今の仕事に就く前にしゃもちゃんがしていたこと、経験したことなど、きっとたくさんあると思うので教えてください!

大学を卒業して、仕事したくなかったのでCGの専門学校に行きました。ネガティブな理由で行ってるので当然大して学ばずそのまま卒業も出来ず一時期ニートでした。さすがに就職しなくてはならないとなり、親の紹介で不動産会社に入りました。今までニートで人生の落ちこぼれだと思っていたので仕事が出来る様になり最初はとても楽しかったです。ですがやはり人任せに決めた仕事だったので数年で飽きてしまいました。この時期に今までの人任せな人生、人が良いと言うモノを良いとする考えをふと「意味なくないか?」と疑問に思うようになりました。20代後半です。気付くの遅いです(笑)。20代後半以前の人生を思い返すと、流れに身を任せ過ぎていて意志や意思、意識が無く何か寝てた感じがします。(汗)

ー「自分の意志で決めて実行する」ことに気づいたのが20代後半ということですが、気づく前と気づいてからとでは、何が一番違いますか?その違いはしゃもちゃんに何をもたらしてくれましたか?

人は人、自分は自分。人の幸せが自分の幸せとは限らない。と思って自分がどういう人生を歩みたいか、どういう時が幸せか、っていうのをまずイメージして、それに向かって行動する様になったと思います。

ー「人任せ」ではできないことですもんね、なるほど。それにしても、しゃもちゃんち、ながめがいいですねぇ!

だいだらぼっちの屋根の上の方が気持ちいいよ、絶対。

ーうれしいお言葉ありがとうございます。(笑)
しゃもちゃんがいたころのだいだらぼっちはどんな感じでしたか?

思い返すと僕以外のみんなには個性があったし自立していた。みんな自分の意志でだいだらぼっちに来ていた。あとみんながチャンチャンコ着てた(笑)。あと途中からみんな料理にハマり出して、主にラサール(しゃもちゃんと同期の中2男子)シェフなんだけど。メチャクチャ美味かった(笑)。シェフのスペシャリティは結構あるんだけど、その1つ「ラサール飯」が本当に美味くて、一人暮らしした時に一回自分で再現して作ったぐらい好きだった。ベースはおじやなんだけど、ご飯、ブイヨン、卵、マヨネーズ、コショウ、水をグツグツ煮込んで作る。具なんてない。シェフが味見してオッケーだったら振る舞われる。シェフのご機嫌が悪いと「しゃもじも自分で作れや」と言われてしまいます。(泣)

ー当時の出来事で一番印象に残っていることはなんですか?また、面白エピソードがあったら教えてください。

ムサシのお母さんの料理だったかな、何かのアキレス腱だったと思うんだけど、それがメチャクチャ美味くて。佃煮みたいな見た目なんだけど、ご飯がススム君よりすすんだと思う。探してるんだけど見たことない。どこに行けばあるのか、一生出会う事は無いのか、相談員に聞いてもイマイチ特定できない謎の食べ物がまた食べたいです。

ーあ、それみけわかります。料理の名前はわからないけど、切り出し(牛のアキレス腱)を甘辛く煮たやつですよ、きっと。あれはおいしいですね!
口をはさんでごめんなさい。つづけて。(笑)

当時小4の僕に初めて「ギャグ」とか「お笑い」を教えてくれたのは細井(しゃもちゃんと同期の小6男子)でした。当時一人一冊スケッチブックを貰ってたんだけど、そこにいっぱいギャグを書いてた。「こっちに行くのがギャグならば、あっちに行くのはギャクである」とか今考えたら全然面白く無いんだけど、スゴいセンスの持ち主だと憧れていた。「しゃもじ」って名付けてくれたのも、しゃもじマークを創ってくれたのも細井。確か。クリエィティビティという言葉も知らなかった僕に細井はクリエィティビティを教えてくれた。YouTubeのない1991年当時「カセットテープ」が僕たちの全てでした。音楽は全部CDからカセットテープに録音して聴いていました。ラサールが持っていた「ふしぎの海のナディア」の歌が入ったカセットテープに僕はこっそり上書き録音でイタズラボイスを録音しました。「しゃもじアカンて!」といつもの様にツッコんでくれると思いきや、ラサールが口を聞いてくれなくなりました。今考えるとやっちゃいけないイタズラです。ラサールが僕を殴らなかったのはとても大人な対応です。やってはいけないイタズラがあるのをこの時覚えました。

ー(爆笑)いたずらっこでしたもんね。スケッチブックはものづくりに関することをいろいろと書き溜めるために渡してあったんですけどね(笑)。笑いのセンスはもともと持っていたものだと思ってました。ひろ(細井)に教わったとは…! 新事実発覚です。(笑)
そんなだいだらぼっちでの暮らしは、今のしゃもちゃんにどんなふうにつながってますか、あるいはどんなふうに位置づいていますか?

実は僕はみんなと違って自主的にだいだらぼっちに行って無いんです。母親に無理矢理入れられました(笑)。最初の一週間位はずっと泣いてた。親と離れて暮らすのが寂しくて。でも一年間だいだらぼっちで暮らして、みんなと仲良くなって、小学校にも友達が出来て、自分で「もう一年行きたい」と親に伝えて、結局ニ年だいだらぼっちで暮らした。教育って時に「強制力」が必要だと思うんです。「こどもがしたい事をやらせる」っていうのはスゴく耳障りが良いけれど、それは教育じゃない。教育っていうのは介入ありきでそれが無ければ勝手に育っていくのと変わらない訳でそれはやっぱ教育ではない。当時の僕が当時の僕が思うやりたい事、好きな事だけしていたら、僕はだいだらぼっちに来ていない。今思い返せば、だいだらぼっちでの経験はとても重要だったし、僕のアイデンティティを作った経験の一つである事は間違いないんだけれど、自力ではだいだらぼっちに辿り着けなかったと思う。母親にはとても感謝しています。
そして僕は教育の一つの重要な要素は、「多様性」を教える事だと思っています。世の中には色んな人が居て、その中でどう生きていくか、どう個性を出していくか。「多様性」を教えるのにだいだらぼっち程最適な所は無い。学校で学べる多様性はたかがしれてる。兄弟ってこどもが最初に直面する社会の縮図だと思っていて、そこに「共存」「競争」「協力」がある。兄弟がいる事で文化も年代を越えて入ってくる。だからお兄ちゃんお姉ちゃんが居る人は年上と割と話があったりする。カラオケ行っても古い歌歌えるし(笑)、兄弟の存在ってこどもにとって重要だと思うんです。だいだらぼっちにはそれの日本最大級の拡張版がある。小学生から(当時は)高校生までが居る。(注:今は中三まで)しかも全国いろんな地域からこどもが集まってきてる。さらにそれが並列に並んでる。学校でも兄弟でも年齢差があるとどうしても縦の関係になってしまう。年齢も地域も男女も関係なく並列に共に暮らすなんてことができる所は本当、他に無いと思っています。あとはやっぱ親以外の人から教わる、親とか家族を客観的に見る、っていう経験もスゴく良かった。「あれ、お母さんが絶対だと思ってたけど違うかも」っていう経験は客観性を得るのにとても良かったと思ってます。

ーだいだらぼっちにニ年目残ると決めたのは間違いなく自分の意思だったかと思います。その「自分の意思で決めて実行した」ことを今どう思いますか?

これは正直に答えると、僕の意思じゃないと思ってます。意思の定義によるけれど、確実に周りに流されて意思決定してる。具体的に言うとクーチョが、細井が、ホダカが残るから、みたいな意思決定の仕方をしてました。でも残りたいと思ったのは事実で、だいだらぼっちの生活がムチャクチャ刺激的で楽しかったから残ったし、だいだらぼっちのみんなともっともっと一緒に居たいと思ったから残った。それは間違いない。でもじゃあ自分一人で、誰が何と言おうと、みたいな意思決定ではなかったと思う。そういう意思決定の仕方は、やっぱり20代後半までずっと出来ていなかったと思う。じゃあ今の僕の意思決定の仕方を当時出来たとして、残ってたか、残ってなかったかというと、やっぱり残ってたとは思う(笑)。

ー人に流された意見だろうが何だろうが、誰かに「残れ」と言われたのでなく、最終的に「残る」ときめたのはしゃもちゃんですから、やっぱりそれは自分で決めたのだと思いますよ。
ところで、しゃもちゃんが今夢中になっていることはありますか?あれば教えてください。その魅力も!

「新しい物事を見聞きする」っていうのが好きな事です。なので旅行がスゴく好きです。特に海外なんかはスーパーマーケットに行くだけでも全く違う。違う事だらけ。それがとても新鮮で刺激的で楽しいです。20代前半はずっと海外旅行にハマってましたが、ある時外国人の友達に「日本に旅行行くけどどこがオススメ?」って聞かれてすぐ答えられなかった事があって。「日本人なのに日本の事を何も知らない」と気付きました。そこから国内旅行もいく様になって、45都道府県は行きました。あと2県。山形と和歌山が次の目的地です。ただ、全県周る事が目的になっていて正直ちゃんと1県1県じっくり見れてないんです。
今年のあたまに目標立てたんです。「毎月1か国海外に行く」と(汗)。 1月にカンボジアに行ったきり、コロナでその目標はしばらく達成できなくなってしまったけど、その代わりこの機会に47都道府県全部をゆっくり巡ってみようと思ってます。そう考えると「海外に行けない!」と悲観的だったのが、「コロナ終息までに全県周れるのか。意外と時間がないぞ!」と思えたので不思議です。地方の廃れゆくビジネスとか後継者不足の事業があると思うので、その過程でそういう物を上手く取り込めたらなとも思ってます。

ーこの状況を前向きにとらえて、しかも自分の糧にできるような動きにつなげるとは、なかなかやるなぁ。
そんなしゃもちゃんの夢を教えてください。

何年か前にキャンプに行ったんです。そのキャンプ場には小さいステージがあって、そこで地元のミュージシャンが演奏してて、音楽と大自然の音をなんとなく遠くに聴きながらBBQしたんです。それがスゴく楽しくて、心地よくて、こういう環境と場をいつか創ってみたいなと思ってます。

ーいろんなところをめぐって、たくさんの人や場所や営みに出会って、それらからたくさんのものを吸収したしゃもちゃんが創り出す場をたのしみにしています!
最後に今のだいだらぼっちのこどもたちにメッセージをお願いします!

人間万事塞翁が馬!

ーなかなかに深い言葉をありがとうございました!

今年はこの状況下で来れていませんが、ここ何年か、年に一度くらい顔を出してくれて、来たらこどもたちがまとわりついて離れない人気者のしゃもちゃん。きれいなお兄さんで来るけど、来たら田んぼ作業や風呂焚きなど手伝ってくれて、しかもだいだらぼっちにある泰阜中学のジャージ着て(笑)。「当時はわかってなかったけど、今思うとほんとここでやってることってスゲーよな」ってつぶやいていたのを思い出しました。だいだらぼっちにいたときには、本当につかみどころがないというか、喜怒哀楽が激しかったわけでもなく、ぽや~んとしていて、でもいたずらっ子だったイメージのしゃもちゃん。いろんなことを経験してずいぶんと大人になったんだなぁと、インタビューを通じて改めて感じました。こんなにも素直にお母さんへの感謝が表れるとは思っていませんでした。見た目も心も大人になったけど、まだこどものようなやわらかい心を持っていて、それがしゃもちゃんの良さとして残っていることがなんだかうれしかったです。コロナの状況が落ち着いてまたみんなに来てもらえるようになったらぜひ遊びに来てくださいね!