その向こう側にいるひとびとに ~2020年 夏の日に~

今日、8月15日。
静かに迎えたいと想う日だが、今年はいつにもまして静かだ。

いつもの年なら信州こども山賊キャンプが最盛期を迎えている。
「山賊キャンプが中止で…」という言葉や表現をこのところ多用している。
その通りなのだからしょうがないが、未練がましく思われるのも本意ではない。

私は山賊キャンプを通して、こどもたちに伝え続きてきた。
つきつめて言えばそれは「あんじゃあねえよ」という社会だ。
あんじゃあねえとは“大丈夫だ、心配するな”という意味の方言だ。
全国の様々なこどもたちがこの信州の山奥に集まって、自然を舞台に遊び尽くす。
信州の自然の恵みを、体中に浴びて暮らす。
隣の人の声に耳を傾け、支え合って生きる。
これらはすべて、実に素朴であるがしかし、確かに「平和」な光景だ。
平和というと堅苦しいイメージかもしれないが、私がイメージする平和はこんな「あんじゃあねえよ」という光景でもある。

目の前にこどもはいない。
でも、いつだって目の前にだけこどもがいたわけではない。
全国各地で講演に呼ばれるが、聴衆のお母さんの向こう側にこどもがいる。
協働で仕事をする行政や地域団体の皆さんの向こう側にも。
そして9年前に書いた拙著「奇跡のむらの物語 ~1000人のこどもが限界集落を救う!」の読者の向こう側にも。

今年は、それが画面の向こう側になっただけだ。
距離のその先になっただけだ。
目の前にいようが、向こう側にいようが、伝えることには変わりない。
しかし例えばオンラインだからといって、言葉もまた空中をさまよってはいけない。
こういう時こそ、地に足を付けた言葉を発しなければ、と強く想う。

世界中が危機を迎えている。
このブログでも何度も警鐘を鳴らしてきた。
国が強くなろうとする時、危機的な状況にある時、常に犠牲になり続けるのは「より弱いもの」だ、と。
75年前の戦争で捨て石にされた沖縄がコロナ感染急増に喘いでいる。
3四半世紀(75年)たった今もまた、政府の失政の捨て石にされようとしているかのようだ。
核兵器禁止条約に批准せず、黒い雨訴訟を控訴するこの政府は、本当にニッポンの政府なのだろうか。
アジアに目を移せば、中国が香港の自由や民主主義を奪うことがあっていいのかと思うがそれが現実だ。
そんなきな臭い動きを大人の対応で調整してきたアメリカは、今や大統領が先頭を切って人権を踏みにじろうとしている。
SDG’s(国連持続可能な開発目標)は「誰一人取り残さない(leave no one behind)」を謳うが、世界の為政者が堂々と弱者を置き去りにしているではないか。
その際に発せられる為政者や指導者の「言葉」は、本当に地に足が着いた言葉なのか。
こんな姿を見せ続けられたこどもたちは、いったいどう育ってしまうのだろうか。
こどもたちはどんな「平和」のイメージを持って生きるのだろうか。
危機的な状況のしわ寄せは、確実にこどもたちに到達する。

今年の夏、泰阜村にこどもの歓声は聞こえない。
しかし、いつも変わらぬ自然の音が聞こえてくる。
この地域が紡いできた歴史の音が聞こえてくる。
耳を澄ませ。
きっと聞こえてくるはずだ。
コロナ感染や経済危機、地球温暖化の危機の陰から聞こえてくる呻き声にも似たSOSの声が。
絞り出すように小さく悲鳴をあげる弱者の声が。

目の前で勇ましい言葉を発するひとびとの「その向こう側にいるひとびと」のかすかな言葉に耳を傾けよう。
そして「その向こう側のひとびと」に、地に足を付けた言葉を届けよう。
「あんじゃあねえよ」という平和な社会づくりは、そこから始まる。

2020年、夏の日に。

代表 辻だいち