桑の実、食べすぎ問題。じゃあ、どうする?|放課後児童クラブ「いってきました」

こんにちは。放課後児童クラブ「いってきました」のバズです。

6月は木の実の季節です。敷地内の桑やグミ、木苺を子供達が食べ始めました。初めて木の実を食べた子は「こんなに食べられる実があるなんて知らなかった。明日も食べる」とのこと。今年から通い始めた1年生の子は「桑の実ってこんなに美味しいんだぁ!」と喜んでいました。自然の恵みが手の届くところにある豊かさを感じる日々です。

お迎えに来たお父さんも、こどもたちが木の実を食べる様子を見て、「昔は良く食べたなぁ」と自身のこども時代を思い出しながら、想い出を話してくれました。「学校から帰って来て荷物を放り出して、友達と遊びながら、話しながら食べてたなぁ。実が大きかったり、特別に甘い木もあって、良く探して歩いてたよ」とのこと。

明治の末から昭和初期の泰阜村では、少ない土地でも食べていける(お金になる)という事で、多くの農家が養蚕を営んでいました。絹糸生産のための蚕(カイコ)の飼料となる桑も盛んに栽培されていたこともあり、養蚕が行われなくなった現在でも村内には桑の木が残っているのです。

 

さて、その桑の実を食べ始めて1週間ほど経った時に、一つの問題が出てきました。それは「桑の実、食べすぎ問題」です。10本ほどの桑の木にこどもたちがわれ先に飛びつき、食べつくし、実が熟すスピードに追いつかなくなる時期がありました。また、採るだけ採って食べずに忘れてしまうというもったいない姿もちらほら見かけ、どうしたものかとこどもたちと相談することにしました。

「宿題やってから採りに行ったら、もうなくなってた」「たくさんあるんだから、気にしなくていいんじゃない」と様々な意見が出てきました。私から、「木が何本かあるから、食べて良い木を決めたら良いのでは」という提案も投げかけ、一旦考えてみようという事になりました。

しかし、この話をもう一度振り返った時に他のスタッフの一言で、本質を見誤ったのではないかという事に気づかされました。ルールをつくることによって、考えることをやめてしまうのではないかという事です。お互いの自由を尊重するためのルールが、それさえ守ればいくらでもという思考になるのではないか。それは一見整理されたように見えて、本質的にお互いを気にしなくなるという悪循環を生み出す可能性を孕んでいました。また、桑の木はたくさんあっても、これから盛りになる、ビワの木は一本しかないということもあり、ルールを決めたからといって解決できない、むしろするべきでないことなんだと立ち返りました。

ではどうするか。それは”こどもたちに問いかける”ことでした。

「今日いない子も食べたいっていってたよ」

「この実はまだ青くて酸っぱいね」

「どうすれば皆で食べれるかな」

人の存在に気づき、意識すること。自然を物ではなく、生き物として気にかけること。時間はかかりますが、ルールという安全ではなく、想いで繋がっていく安心感がこどもたちに染み込むものがあると感じました。