そんな山奥に行ってどうするんだ ~半世紀の人生をふりかえる時~

「そんな山奥に行ってどうするんだ」
1993年、大学卒業と同時に信州に移住する私のことを、周囲の人はとんでもなく心配した。
バブル最終期、友人は次々と大企業に就職していた。
山奥に行く私の姿は不思議に映ったに違いない。
同じことは高校卒業時にも言えた。
豪雪に悩まされた人びとは、「どうして福井より雪が降るところにいくんだ」と北海道の大学に進学する私のことをやっぱり不思議に想ったことだろう。

私は人口1600人の小さな山村に住んでいる。
子どもが1年間、村の小中学校に通いながら共同生活を行う山村留学や、夏休みなどの自然体験教育キャンプを行うNPOの代表を務めている。
就職当時の私の給料は6万円。
今もなお多くの年収があるわけではない。
へき地山村で生き抜くためには、高校や大学の学歴などは何の意味もないことだった。
しかし今、小さな村にあって20人弱の若者を雇用するNPOは「優秀な大企業」だ。
何もない村に産業が興り、若者のU・Iターンが増えた。
「山村留学」の卒業生がIターンで村に定住する現象(Sターン)も始まり、まさに「教育」が地域再生の中心に位置付きつつある。

信州泰阜村の山々を背にして

高校まで過ごした福井。
戦災、震災、豪雪、豪雨と災害が多い土地柄は、その都度よみがえり「不死鳥の街」と言われた。
この街は私に「あきらめない心」を教えてくれた。

大学時代は札幌で過ごした。
運動ができる子どもより「できない子ども」に主眼を置く学問(体育方法論)との出会いと、児童擁護施設での家庭教師ボランティア。

北の大地は私に「小さな力を信じる心」を教えてくれた。

信州泰阜村に飛び込んで四半世紀。
「何もない」山村に住む人びとと風土が発揮する不屈の精神と豊かな支えあいの文化は、私に26年かけて「あきらめない心」と「小さな力を信じる心」を大きく、そして強く育ててくれた。

ブーメランをご存じだろうか。
弱々しく投げると途中で落ちる。
思い切り強く投げ出すからこそ、手元に戻ってくる。
きっと私は福井の人びとに思い切り、強く投げ出された。
そして札幌での様々な経験を身に纏い、信州に着地したのだと確信している(落ちたのではなく)。
その送り出される強さ。
それは高校時代に獲得した熱量だ。
多くの友人と味わい深い恩師たち、そして家族や地域の人びとに囲まれて、確かに私は逆境を生き抜く強さを手にした。
それは学歴よりはるかに大事な強さだった。
ありがとう高校時代。
次は私が、未来に生きる子どもを強く送り出す番だ。
30年ぶりに再会した友と共に、次の世代につなぐ時が今、そこに来ている。

高校の同窓会誌に寄稿した文章だ。
正確には寄稿を依頼されたのだが。
今年は高校同窓会の幹事年。
故郷福井に住む同級生たちは、2年かけて準備をしてきた。
その献身的な努力に頭が下がる。
遠隔地にいて何も手伝えない身が、せめてもの想いで寄稿依頼を一発OKした。
昨年秋から今もなお、本番も当然だが前哨戦のようなプチ同窓会が全国あちこちで。
30年ぶりに再会する友もいて、本当に感慨深い。

平成元年に高校を卒業した。
そして令和元年に同窓会。
「元号最初の年に・・・」にあまり意味はないが、それでも区切りの年に節目が来ると想うと、自分の人生の数奇さにしばし想いを馳せる。
49歳になる年に同窓会って、いいのかもしれない。
次の人生が始まる予感がする。
故郷の友はやっぱりいい。

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代表 辻だいち