だいだらぼっちの卒業生にインタビュー ラサール(1991年度参加)

周りの力を借りて、やりたいことをたくさんやってみて。きっとその体験は、だいだらぼっちから離れた後も、自分の人生を楽しむ礎になる。

だいだらぼっちの卒業生・保護者にインタビューするこの企画、今回はだいだらぼっち6期生のOBラサールです。ラサールは、だいだらぼっち6年目(1991年度)に、中学2年生の一年間をだいだらぼっちで過ごしました。それではインタビュースタート!

ーこんにちは、さっそくですが、簡単に自己紹介をお願いします。

 

1991年度、中学2年生の時にだいだらぼっちに参加していた、六期生のラサールです。長すぎるので「ラサ」と省略することの方が多くなりましたが…。現在は、岐阜県岐阜市で小中学校の教員をやっています。家族は、奥さんと幼稚園に入園したばかりの娘がいて、8月にもう一人生まれる予定です。この状況に大きな故障が重なったため、これまでのうるさくて狭くて2枚しかドアのない車から、静かで4枚ドアのある車に買い替えたところです。

 

ーなんと!あの愛車を手放したのですね!(超びっくり!一生手放さないのかと思ってました。)こどもの力は偉大なり(笑)。
ラサールが今のお仕事に就こうと思った理由を教えてください。また、お仕事への想いもぜひ教えてください。

 

大学を留年した上、就職超氷河期だったにも関わらずバイトと遊び三昧で、ろくに就職活動もしない中、公務員試験だけ受けてたら、たまたま警察官の採用試験に合格したけど、1年足らずで辞めてしまった。いい加減な性格のせいで、堅苦しい雰囲気が合わなかったのが大きかった。あと、グロ耐性(グロテスクな物への耐性)がなかったのが致命的。しかし、無職では生きていけない…。ただ、2002年ぐらいって、あんまり仕事を選べない状況で、多分何やっても続かないだろうなー、って思ってた。そこで、当時持っていた資格とかを考えて、中学生の時に完全に否定してた両親の職業である学校の教員が一番安定するかな、と思ったのが志望動機だった。でも、採用状況が厳しい時代が続いてて、採用試験を受けても落ちたから、しばらく臨時の講師を続けてた。2006年にようやく合格して、もう転職を考えるエネルギーがないので、今でも続けています。

 

ーお仕事で大変だったことや困ったことはありますか?また、それらをどう乗り越えてきましたか?

 

小学生や中学生が生意気で、言うことなんてなかなか聞かないっていうことは、自分自身とだいだらぼっちで経験済みだから、うっとうしいと思うことはあってもそこまで大変じゃないかな。でも、特に小学校だと、自分の子どもに期待しすぎてたり、子どものことより親のプライドを優先してたりするような保護者って、たいてい常識では考えられないクレームを入れてくるから、その対応が一番大変かな。まあ、ほとんどの場合は、子どもの心をガッチリ掴めば何とかなるけど。

 

ー子どもの心をガッチリ掴むコツって何ですか?

 

正直な話、どうすれば子どもの心をつかむことができるのかは、20クラス担任した今でもよく分かってない。もちろん、毎年必ず全員の心をつかむことができているわけじゃなくて、自分とは合わなかった子どももいたよ。特に小学校高学年や中学生だと、1~2割ぐらいはそっぽを向いてたかな。でも、残りは、担任である自分の方を見ててくれて、距離感が近かったかな。小学校低学年や高学年だと、近すぎて困ってしまうぐらいになる子も多かった。そういう子の心は多分掴んでたけど、あの子たちは一体自分の何に興味をもったのか、よく分かってない。ただ一つだけ言えるのは、20年以上教員やってても、自分は教員らしくないんじゃないかと思う。すっごく子どもっぽいと言った方がいいかな。子どもと同レベルで給食の取り合いもするし、休み時間は外で一緒に遊ぶことも多い。子どもが(主に髪型や体型のことで)からかってきても、ネタとして笑い話で終わりにすることもある。自分との距離感が近い子は、多分「先生」ではなくて、「おっさんの友だち」と思ってるんだろうなあ…。でも、自分はそれでいいと思ってる。子どもと自分の間には年齢以外特に違いも優劣もないんだから。ちなみに、教員の世界では、授業が分かりやすくないと子どもの心をつかむことはできないとも言われてるから、一応授業にも力は入れてるよ。特に社会の授業は毎年クラスのトップ人気の教科になるくらいにはしっかりやってる。

 

ーめっちゃ頑張り屋さんですね!
お仕事をしていてよかったと思うことや、一番の思い出などあれば教えてください。 

 

いい加減な動機で始めた仕事だけど、子どもが成長した姿を見ると、やっぱり嬉しいかな。一番の思い出かあ…結婚式に、それまでに担任したたくさんの子どもたち(大人になったのも混じってたけど)が来てくれたのが今でも心に残ってるかな。あと、中3担任した時の子どもが成人してから連絡くれて、一緒にお酒飲みに行く時が一番幸せだったりする。

 

ーその気持ちはよくわかります!みけたちも一緒ですから。
今のお仕事に就くまでに、ラサールが体験したことなどきっとたくさんあると思うので教えてください。

 

仕事に就いた理由でも話したけど、警察官の仕事は自分には合わなかっただけで、世の中にとって大切な仕事だということが分かったのはいい経験だった。それまでは、どうでもいい交通違反で取り締まりをするだけの鬱陶しい組織でしかなかったから。警察官での体験は、他ではできないことが多かったから、今から振り返ると面白い。拳銃を実際に撃って、全く的に当たらなかったとかもあったし。テレビやゲームの世界で、素人が銃を撃ってあんなにバンバン当たるのは絶対に有り得ない。人質取ってる悪い人に向かって撃って、人質に当たっちゃったとしてもまだマシなレベル。

 

ーそれはちょっとっていうか、だいぶおっかない。ぜひみんな無縁であってほしいですね、拳銃とは。
ラサールは結婚されていて、お父さんでもあるわけですが、家庭をもって自分の中で何か変わったことや気づいたことはありますか?

 

結婚するまでは、自分のことと仕事のことだけ考えてれば生活できたから気楽だったけど、家族のことを考えないと生活が成り立たないから、家庭をもつって大変なことだな、って人並みに思った。あと、子どもはマジで大切。保護者が必死な理由もやっと分かった。クラスの子どもたちへの接し方も、その後ろにいる保護者のことまで考えられるようになったのは大きいかな。

 

ー親になって初めて抱く親への感謝って感じですね。ぜひともご両親に感謝してください(笑)。
ラサール一家はどんな一家ですか?PR含めて教えてください!

 

子煩悩な父(自分)と、優しい母(奥さん)と、可愛い娘!…と言いたい所だけど、実態は、平日は仕事でなかなか早く家に帰れないから、子育てで大変な奥さんのサポートが不十分かなあ…でも、ちょっとしたことで笑い合うことができる一家であることだけは間違いないかな。娘の行動が面白いから、みんなで笑ってるよ。

 

ーそれはトップの写真からもよくわかります。充分子煩悩に見えますけどね。
話は変わりますが、ラサールがいたころのだいだらぼっちはどんな感じでしたか?

旧母屋を作った先輩世代がほぼ抜けて、次に何をしていくのかが定まりきっていなかったから、先輩世代の後追いをしようとするんだけど、話し合いしてもなかなかうまくまとまらないことが多かった印象。ダラダラするのが好きなメンバーが多かったような気がするし。若い(ギックでも今の自分より若かった時代)スタッフ数人で、癖のありすぎる子どもたちを何とか動かしていたってのがまさに驚異。中学生の時の自分を、スタッフとして自分が接することになったら、間違いなく3日でぶん殴るぐらいのクソガキだった自覚はあるし。

 

ーその自覚があってよかったです、よく衝突しましたからね(笑)。3日ももらえたら上等です(笑)。
当時の出来事で一番印象に残っていることはなんですか?また、面白エピソードがあったら教えてください。

 

これはだいだらぼっちだからではないけど、夏休みが自分の知ってる夏休みの長さじゃなかったのが衝撃的だった。あと、旧母屋だったから隙間風がすごくてむっちゃ寒かったから、薪ストーブがとても暖かかったのも印象に残ってる。冬の朝、寝癖が酷かったから、お勝手の給湯器で髪を濡らして、よく拭かずにそのまま南中学校まで走っていったら、学校に着いた時には髪がバリバリに凍ってたぐらいには寒かった。夏の万古渓谷で川遊びをしている時に、アブが大量発生してて、刺されて痛くて、みんなで逃げ惑ってたのも印象に残ってるかな。

 

ー印象に残っていることはわりと素直な少年っていう感じですね(笑)。
だいだらぼっちでの暮らしは今のラサールにどんなふうにつながってますか、あるいはどんなふうに位置づいていますか?

自分のことは自分が何とかするしかない、という今の自分の基本的な考え方は、だいだらぼっちで暮らした1年間の経験で身についたと思ってる。周囲の力を借りて何かをするにしても、最終的にやる、やらないを決めるのは自分自身。そもそも力を借りようと思ったら、まず自分自身がそれなりの姿を見せないと貸してもらえないし。

 

ーそうですね、それなりの姿を見せることも大事だし、素直に「力を貸して!」って言える関係性をいかに構築しているかっていうことも重要ですよね。いつまでも殻をかぶっていてはそんなこと頼めないですしね。
ところで、今ラサールが夢中になっていることはありますか?あれば教えてください。その魅力も!

 

社会科の教員として、同じ仕事をしている弟と全国を巡って、色々な人に取材して、それを授業にすることが一番の趣味になってる。2回ほどギックにも取材に行かせてもらった。この取材は、全く学校からはお金が出ないから自腹で行ってるけど、ここ10年ほど年に3回ほどは出かけてる。今はネットの時代だから、何でもネットで調べれば出てくるかもしれないけど、やっぱり現地で、その仕事をしている人と顔を合わせて、思っていることを直接聞くと、ネットでは出てこない話や思いが聞けるから楽しい。何せ、徳島県の鯛や鰤の養殖業者の社長に取材した時なんて、「こんな儲からない仕事をしようとしている人がいたら全力で止めたい」とか、当の社長が言ってるのを聞いて、こちらが「素晴らしい仕事だと思います」とか、「ここで採れた鰤はとても美味しかったですよ」となだめることもあったし。副産物として、その土地の美味しい食べ物やお酒が楽しめるのもポイントが高い。奥さんにも、「取材に行ってくる!」で、簡単に旅行の許可をもらえるからありがたい。

 

ー何で全国まわろうっていう話になったのですか?きっかけは何だったのでしょう?

 

もとは、夏休みに弟と二人で旅行に行ってたんだけど、ただ旅行するだけじゃ面白くないから、社会の授業に使えそうな所に行こう、というのが始まりだった。でも、行っただけでは正直よく分からない。そもそも、人の行動には必ず「想い」が関わっているから、正しいことを教えようと思ったら、その「想い」まで伝えられるようにならないといけない。電話やオンラインで聞けば済む話かもしれないけど、直接会って、話をすることで、話だけじゃない「想い」を直に感じることができるから、直接会いに行こう、という話になった。

 

ー取材して、どんな授業をしてるのか、ちょっとだけでもいいので教えてください!

小学5年生の「水産業のさかんな地域」の授業を例にすると、導入で、石川県七尾市のとある水産業者が、捕れた魚に「神経締め」という技法を施して販売してるんだけど、この「神経締め」をした魚は、漁業組合に持っていくと、傷物として扱われて二束三文で買い叩かれてしまうことを提示する。そうすると、子どもの中から、「なぜ神経締めなんてするのか?」という疑問が出てくるので、それを授業の課題にする。疑問を解決するための資料として、①神経締めをした魚と普通の値段の比較、②鮮度保持の期間の比較、③流通経路の違い、という3つの資料からじっくり考えさせ、それぞれの資料から分かったことを自分で、そして交流で出てきた意見でつなげて、「市場に出さなくても、神経締めをした新鮮な状態が長続きする魚は、高くても買ってくれる人がいるから。」というまとめを作る、という流れかな。導入資料も、課題解決のための資料も、全て取材をもとにして考えてるよ。

 

ー面白そうですね。みけも受けてみたいし、だいだらぼっちのこどもたちにもその授業やってほしい!
そんなラサールの夢を教えてください。

 

取材で作った社会科の授業を本で出版してみたい、というのが夢。せっかく全ての授業の進め方を作成できたから、自分たちだけで使うだけではなく、全国の教員に使ってもらって、その授業を受けた子どもたちに「社会の勉強が楽しい」と思ってほしい。あ、本が売れてお金が入ってくるところまでが夢ですが。

 

ー最後に今のだいだらぼっちのこどもたちにメッセージをお願いします!

 

だいだらぼっちは不便さを楽しむところです。スマホもテレビもゲーム機もないからこそ、自分たちで楽しくなることを考えて、みんなで力を出し合って、一つひとつ暮らしを作り上げるところだと思います。何もしたくない時は、その思いをみんなにぶつけてもいいところなはずです。でも、周りの力を借りて、やりたいことをたくさんやってみてください。きっとその体験は、だいだらぼっちから離れた後も、自分の人生を楽しむ礎になりますよ。

 

ーありがとうございました!

だいだらぼっちにいたときは中二病でしたけど、OBになって遊びに来てくれた時にはいつもこどもたちの面倒をよくみてくれていました。口も態度も悪いけど、最後までちゃんとみてくれる面倒見のいいラサールが教師になったと聞いた時には、ビックリもしましたがきっといい先生になるとも思いました。本人もインタビューの中で言っていますが、結婚式の披露宴が終わった後、式場のロビーには溢れんばかりの元生徒たちが(おそらく100人くらい)来ていて、それを見たときには、こんなに慕われている先生はなかなかいないと思ったのと同時に、それだけこどもたちのことをきちんとみていたのだな、と思いました。生徒たちもラサールも幸せだな、と心の底から思いました。ラサールの夢、応援していますから、ぜひ叶えて、本ができたら持ってきてくださいね!楽しみに待っています!