だいだらぼっちの卒業生にインタビュー ゆう(1992年度参加)

いま授業でこどもたちとがっつりつき合ってるのは、「こどもが信じるのは本気の大人」って知ってるから

だいだらぼっちの卒業生・保護者にインタビューするこの企画。今回はだいだらぼっち七期生のOGのゆうです。ゆうはだいだらぼっち七年目(1992年度)、小学5年生の一年間をだいだらぼっちで暮らしていました。みけが二人目のこども(萌由:もゆ)を出産した年です。

ーゆうちゃん、お久しぶり!本当に久しぶりすぎて最後にあったのいつだったっけ!?(笑)それでは、早速自己紹介をお願いします。

久保田佑です。とくにキャンプネームはなく、「ゆう」と呼ばれていました。
1992年度、小学5年生の時に1年間参加しました。

今は、演劇教育に携わっていて、フリーランスの「演劇講師」です。
家族は、高校1年生の息子と2人家族。とはいえ息子は寮生活なので、ほぼ1人暮らし。

両親(洋治&泉)は徒歩3分くらいのところに住んでいて、姉(彩・1989年度・1990年度に参加)一家も弟一家も同じ神奈川県内に住んでいるから、時々会っているよ。
みんなそれぞれの分野で面白そうに生きてる。それぞれってのが、久保田家らしいでしょ。

ー今のお仕事に就こうと思った理由を教えていただけますか?

演劇の可能性を信じているから!!
…って、これじゃ漠然としていて訳がわからないよね。(笑)

そもそも、「演劇講師」という職業があるのかな…たぶんない。元々こういう職業があって就こうと思ったわけではなくて、やりたい仕事を積み重ねていったら、「私のやっていることは“演劇”の講師だなぁ」と思って、名刺の肩書きにそう書くことにした。講師といっても、演技指導者でも、演出家でも、演劇関連の研究者でもない。ここポイントね。

私は、演劇は「演技力や表現力を上げるためだけのものではない」って考えているんです。
芝居をつくるには、相手の話を聞き、自分の意見を言い、共に何かしらの方向性を導き出すことが必須。それって、人間関係の基本でしょ?
自己主張が得意でも相手の意見を聞けなければしょうがないし、協調性があるように見えても流されてばかりじゃダメ。
多くの日本人は集団が好きだけれど、それは同じタイプの人たちが集まる「グループ」なんだよね。そうではなく、異なる役割を持って協力し合う「チーム」が大事なんだと思う。
芝居づくりには、多くのキャスト・スタッフが関わるのね。それぞれは違う立場で様々な意見を持っているけれど、ひとつのものに向かって「協働する」ということが重要なんだって考えている。芝居づくりの過程で問題が起こらないことはないから、問題解決能力も育つ。あとは、表現するには主観性と客観性の両方が必要だし、登場人物の解釈は、他者理解につながる。作品と向き合うことは、様々な生き方や社会などに目を向ける機会になる。
こういう風に、演劇って「人生を豊かにする」「生き抜く力をつける」ことに役立つはずだって信じてるんだよね。

だからプロを育てるのではなく、私の仕事のメインは、高校で「演劇の授業」をすること。
その他にも、演劇大会の審査員をしたり、シニア向けや親子向けの演劇ワークショップをしたり、演劇部のインストラクターなんかもやっているよ。

ごめん、仕事が大好き過ぎて、しょっぱなから語り過ぎちゃった。

ーゆうちゃんはお母さんでもありますが、子育てと仕事の両立という面で大変だな、と思うこと、逆に幸せだな、と思うことを教えてください。

あっ、これに関しては、「大変」だった!!

我が家は母子家庭なので、何が何でも私が稼いでくる必要がある。でもやりたい仕事はお金になりにくい。それに息子との時間や経験も大切にしたい。時間も体力もお金も、常にギリギリの状況だった気がする。

息子が小さな頃は「ひたすら頑張る」ことで、乗り切った。
両親は私を丈夫に産んでくれたけれど、それでも身体を壊して何度か入院もした。人間、頑張ればいいってものじゃないよね。(笑)

それから、息子が小学4年生から中学3年生まで不登校だったのも大きかった。
私は「学校なんて行きたくなければ行かなくていい」と考えているはずだったけれど、いざ自分の子が行けなくなったら、デンと構えてはいられず、はじめは様々な、今から考えると見当違いな手を打ちまくってた。
私は演劇教育をして「集団だからこそ学べる」と謳っているのに、集団教育に合わない息子に戸惑っていたのかもしれない。
それと、息子がこんなに苦しんでいるのに、仕事なんかしている場合ではないという葛藤もあった。
不登校の初期は綱渡りのような毎日だったなー。実家の両親や周囲に助けてもらいながら頑張ったけれど、あの頃は本当に大変だった。

でも、子どもってすごいよね。大人があれこれ振り回されてバタついていても、ちゃんと大切なものを見据えている。
スムーズにいかなくて立ち止まることはあっても、ちゃんと自分のペースで歩みを進めている。
私はたぶん「どうにかしてあげなきゃ」と思っていたんだよね。でも私が引っ張ってあげる必要はなくて、見守って、助けを求められた時に出動すればいいことがわかった。というか、わかっていたんだけれど、実行できるまでには時間がかかった。
不登校6年間は、息子から学ぶことだらけだったよ。

今の息子は、高校に通ってる。自分で見つけてきて、自宅からは遠くて通えないのにどうしても行くって、寮に入っちゃった。
はじめ、親元を離れると言われたときには、「なんで?!家が嫌いなの!?」ってショックを受けたけれど、考えてみれば、私も「家が嫌いなわけじゃない。でも、親元にいたら自分の力は試せない」みたいなことを思って、だいだらに行ったんだった。なんだ同じじゃん、って感じ。(笑)
独自の教育理念がある自由な学校で、今はとても楽しそうにのびのびと通っている。この学校、ぎっくも学校創立時に関わっていたらしい!!

息子は、とことん優しくて、自分の考えで判断ができて、芯がある人間に育っていると思う。いや、親バカだけど。しかも結構イケメンなんだよ。いや、調子乗りました、ホントすみません。

幸せだなと思うこと…幸せなのは毎日なので、「子育てと仕事の両方をやってよかったこと」でもいい?

仕事面では、子育てのおかげで、前よりもよっぽど広く深く生徒のことを見られるようになったこと。前は、「みんなと一緒にできない生徒」に対して、今ほどわかっていなかったと思う。

家庭面では、仕事をしていることで息子には多大な負担をかけてしまったけれど、もし私が専業主婦だったら、自己承認欲求から「いい母親」を追い求めすぎたんじゃないかな…。過干渉の超面倒くさい母親になってしまう危険性が高い。

だから、家庭以外に自分を認めてもらえる仕事の場があったのは、本当によかった。

ーゆうちゃんがいたころのだいだらぼっちはどんな感じでしたか?

もちろん記憶はあるんだけれど、それが「日常」だったから、「山奥でみんなと暮らしていたなぁ」っていう感じ?
現在のだいだらぼっちにご無沙汰してしまっているせいで、比較対象がなくて…すみません。

ー当時の出来事で一番印象に残っていることは何ですか?また、面白エピソードがあったら教えてください。

印象的なことは沢山あるけれど、今でもはっきり覚えているのは、「ニワトリをしめたこと」かなぁ。
「飼っていたニワトリ」が、「鶏肉」になっていくのを経験したことは、私自身に深く刻まれた。それまでも「鶏肉はニワトリの肉」と知っていたけれど、実感が伴っていなかったんだと思う。

普通に生きていると、目の前には様々な「結果」が提示されるでしょ?
「その結果に至るまで」を、知識として得るだけでなく、もっと実感を伴って考えたり経験しなくてはならないのだと痛烈に感じたときだった。

ーだいだらぼっちでの暮らしはいまのゆうちゃんにどんなふうにつながっていますか、あるいはどんなふうに位置づいていますか?

フリーランスで仕事をしていくには、自ら相手と交渉したり、臨機応変に集団の中で立ち振る舞う必要がある。
相手が必要としていることを読みとって提供するとか、自分の意図が伝わるような喋り方をするとか、私が普段使っている「名前はついていないけれど、生きていく上で役立つ力」は、だいだらぼっちの暮らしの中で得たものも多いんじゃないかなぁ。

とはいえ、1992年度は参加人数が多くて私は年下の方だったし、こう見えて結構シャイだから、その頃から意見がうまく伝えられたわけじゃない。それで時々、工房に逃げてたね。今でもたぶん菊練りはうまいと思う。あと、ピンポン(当時のスタッフ)のところにも行ってたなぁ。ピンポン元気かなぁ。
そのときのもどかしさや口惜しさも含めて、ちゃんと糧になっている。「楽しい」「役立つ」をすぐに実感できなくても、絶対にその後の人生に活きてくるんだよね。

それから、今、学校で授業をするとき、「先生は課題を出して、取り組む生徒を評価する」という一般的な形ではなくて、がっつり付き合っている。それは多分、だいだらぼっちの相談員が「子どもたちが遊んでいるのを眺める」という姿勢じゃなくて、一緒に本気で面白がったり遊んだりしてくれていたのが影響しているんじゃないかな。「子どもが信じるのは本気の大人」って、そのときに分かったから。

それ以外にも細かいことはたくさんあるよ。
例えば、いくら「やるぞ」って決めても、意外とできない自分を知っているってこと。
あるとき、夜の段取りで「朝づくりをちゃんとできていない人が多い」って話になって、私は、「明日は絶対に起きるぞ!」って決意したんだよね。でも、翌朝も起きられなくて。自分のダメさに衝撃を受けた。
でも、1回目はできなくても、いろいろ方法を変えてやってみるとできるようになったりする。だから今も、「できなかった。もうダメだ…」ってなるんじゃなくて、「おぉ、やっぱり思っただけじゃできないよな!」って、 自分のダメさと付き合いながら、次の手を考えてる。
もちろん、どうしてもできないこともある。そういうのは、周りと助け合いだよね。自分一人で全部のことをできなくてもいいし。
この「朝、起きられなかった」という体験自体は本当に小さなことなんだけれど、お母さんが毎日起こしてくれる生活じゃ、絶対にわからなかったと思う。

あと、重いものをしっかり足腰を使って持てる!これは、バタ出しをしていたからだと思う。あれ?バタ出しって言葉ある?今、27年ぶり(!)に急に頭に浮かんだ言葉なんだけど。山から木材おろすやつ。なんだっけ…?(←「山出し」です!)

舞台は重いものも多いんだけれど、ひょいひょい持てるから便利。

中型バイクの免許を取るときにも、「倒れたバイクを引き起こすのは女の子にとっては大変」って言われて怯えていのに、気抜けするほどひょーい!って起こせた。教官ビックリ。(笑)

こんな細かいこと上げ始めたらキリがないよね。

まぁこんな感じで、だいだらでの経験は私の日常の中に根付いています。

ーゆうちゃんが今夢中になっていることはありますか?あれば教えてください。その魅力もぜひ!

好きなことは沢山あるけれど、「夢中」は、やっぱり演劇教育の仕事かなぁ。やってもやっても興味深い!魅力はさっきお伝えした通り!

あと最近は、「人生に大切なのは、芸術と筋肉である」という感覚があるんだよね。まだ理論武装はできていないんだけれど。で、身体を鍛えてる。
以前は、「なんとか倒れず動いてくれればいい」「気合いで動かす」と身体を酷使しまくっていたけれど、最近はスポーツジムで自分の身体と向き合う時間を作れるようになったよ。子育ても一段落したからね。

ーおもしろい!理論武装できたらぜひ教えてくださいね。そんなゆうちゃんの夢を教えてください。

日本の演劇教育を変えたい!…までは言わないけれど、一石を投じるくらいのことをしたいというのが、夢というより目標。
現在は、神奈川県の公立高校に「舞台芸術科」を新設する動きに関わっているから、しっかり尽力したい。

その一方で、固執しないで、興味があることにはどんどん挑戦していきたいとも思ってる。好奇心を持ち続けて、軽やかに生きていきたいな。

ー最後に今のだいだらぼっちのこどもたちにメッセージをお願いします!

私にとってだいだらぼっちは、いい意味で「通過点」なのだと思う。大切なところだけれど、依存するところではない。だいだらの経験を、その後の人生にどう活用できるかが重要。

だから、まずは今、楽しいことも嬉しいことも大変なこともちょっと辛いこともたくさんの経験をして、形ばかりの体験ではなく、自分の深いところに蓄えてほしいなと思います。

―あたたかく重みのあるメッセージをありがとうございました!

ゆうちゃんがいたとき、確かに小さい方から数えた方が早かったけど、静かで小さいけどいつも何かを考えてる、「ただものではない」女の子だったことを、インタビューをして改めて思い出しました。今の写真を拝見すると、とても明るい、素敵な笑顔。でもきっとその裏にはとてつもない努力があったんだろうな、と感じました。

ゆうちゃん、ぜひ息子さんと一緒にだいだらぼっちに顔を出してくださいね!いつでもお待ちしています!