学生の脆弱な自然観 ~あれから7年、社会が試されている~

立教大学で授業を持って7年になります。
「自然と人間の共生」という授業です。
自然と向き合う暮らしや被災地の状況を紹介します。
それを通して、学生自身が今後あるべき人間と自然の関係を考える。
そんな授業です。
東日本大震災直後からこのような授業を持つことになったのは、何かの縁かもしれません。

講義当初は、若い勢いに任せてただ表面的に批判するだけだった学生たち。
批判的精神それ自体は学生の特権でもあり大事なものです。
しかし「では自分はどうなのか?」と自分事として考えてもらうことにより、2か月もたてば批判の質が深みを帯びていきます。
その変化は鮮やかです。
迸る若い情熱が文字に踊ります。
若者の教育の醍醐味ともいえるでしょう。

一方で、学生たちの自然に対する意識の脆弱さも感じます。
それは危機的なほどまでに。
講義当初は、

人間が自然を支配できる――
自然は邪魔なものであり恐怖の対象――
自分の人生と自然は全く関係ない――
自然とは周りにあるものなのに、むしろ人間は自然の一部なのにもかかわらず、学生から語られる自然はどこか「遠い」。
なにか「違う」。
そんな寒々しい自然観が学生を覆っているように感じます。

先日、大手新聞の片隅に扱われた青い写真の記事を見ました。
沖縄の辺野古の海です。基地移設による工事が強行され、珊瑚が壊されつつあるという記事と写真です。
この辺野古の「珊瑚」の写真を見せて、寒々しい自然観に覆われた学生は何を想うのでしょうか。
何も思わないのかもしれません。

7年の授業を通じて私は確信に近い想いを持っています。
多くの学生は、少なくとも私とは違う狭い視野で「自然」というものを裁断しているのだ、と。
そんな脆弱な自然観の持ち主であった学生たちが、なぜ鮮やかに変化したのでしょうか。

先日、私の講義を受けた学生からメッセージが届きました。
「講義前は、結構批判的というか教育としてどう成り立っているのかと疑問でしたが、先生の暖かい言葉と一緒にどんどん村のイメージが変わって…」
リアルタイムでの泰阜村の映像、実体験を伴った話、それらをまとめた本。
ゲストスピーカーの泰阜村民や東日本大震災で被災した方の言葉の数々。
それまで画面の向こうだった遠い自然が、息づかいやニオイなどの生活感を伴って、学生自身の生の歴史に入ってきます。
自分の暮らしと断絶されていた自然が、近くになっていく感覚。
自然と自分のつながりと連なり。
それを実感する入り口に立ったからでしょう。
最終試験の答案には、その実感がびっしりと語られています。

これはおそらく自然だけではないでしょう。
人権や平和や政治といったおおよそ学生が自分からは「遠い」と想っているものにもあてはまるのではないでしょうか。
マスコミは、若者の現状認識の力が脆弱なことを理解してるでしょうか。
若者から「遠いもの」を、若者に近づける努力をしているでしょうか。
鋭い分析能力と、若者が判断可能な「正しい情報」をきちんと発信する能力。
ジャーナリズムの能力が試されています。

そして当然のことながら私たちも試されています。
教育は大事です。
約半年の講義で、学生はかくも変わります。
こどもや若者の力を信じ、未来を共に語る丁寧な営みが試されています。
若者たちに、遠くにある未来は確かに自分たちが創るのだ、といいう実感を手にしてもらわなければ。

NPOグリーンウッドでは来年度も、泰阜村の地域のチカラ、教育のチカラを、全国の学生たちに提供します。
次の世代を担う若者へのアプローチが試されています。
社会のチカラが今こそ試されています。

代表 辻だいち