【東大の教授と泰阜村の教授、どっちがスゴイか勝負しようじゃないか】

20年前、木下さんは私に夢をつぶやいてくれたのだと、今そう想う。
「辻君、わしゃ、生まれ変わったら教師になりたい」
と。

そして今、おこがましいが私がつぶやく。
「木下さん、聴いてくださいよ。私の夢はですね・・・」
と、授業が終わりZOOMを閉じて、私は木下さんに語りかけた。

私にはどうしても実現したい夢がいくつかある。
そのひとつは、このブログでも再三宣言してきた「多地域間交換留学」だ。
その想いは、このブログで一番読まれている記事になっているので、以下参照いただきたい。

高知県大川村というそれはそれは小さな村に来ました。 日本一人口が少ない村です(離島を除く)。 なんと人口404人! 昨年、村議会を廃止...

さて、これと同じくらいに本気の夢がもうひとつある。
それは、この村に4年生大学を創ることである。
10年以上前から構想しているが、ほとんど誰からも相手にされない。
あたりまえだ。
全国の地方都市が実現したい大学誘致を、人口1600人の小さな山村が実現できるわけがない。
誰もが最初(はな)からそう想って、私の夢など「たわ言」と感じていたのだろう。
ところが本気で10年以上語り続けると、一緒に実現しようという仲間が増えてくるから不思議だ。
やっぱり夢は中途半端じゃなくて、本気で語らなければ、本気の仲間が集まらない。
しかも今年度のコロナでオンライン授業。
全国どこからでも授業を配信できることがわかったではないか。
実現に一歩も二歩も近づいていることを、これまで私に夢を聞かされてきた人は感じていることだろう。

4年生の大学を創る、という全体的なビジョンはまた別途記したい。
もう少しミクロ的に言うと、泰阜村のおじいま・おばあま(おじい様・おばあ様という意味の方言)を大学教授にしたいということに尽きる。
こんなことを言うと、さらに「無理に決まっているだろう」という言葉があちこちから飛んできそうだ。
そして当のおじいま・おばあまたちは「そんなこと、わしゃ無理だに。高校も行ってないわしなんか、そんなそんな。辻さん、ばかなこといっちゃいかん」と私を睨みつけてくる。
それが現代社会の普通のステレオタイプだ。

数年前、地方大学の理事長と話す機会があった。
私がこんな夢を持っていることをどこからか聞きつけたのだろう、こんなことを話してくれた。
「辻君、東大の教授と泰阜村の高齢者、どっちがスゴイんだろうね?」
私は、泰阜村のおじいま・おばあまに決まってるじゃないか! と心の中で叫んだ。
理事長は続ける。
「普通に考えれば東大の教授だよな。でも、それ、本当かね?」
ん? 何だ? 話がおかしいぞ、どうしたこの人???
「おそらくだけど、泰阜村の高齢者の皆さんは、東大の教授に匹敵するモノを持ってるんじゃないかな。東大の教授と泰阜村の高齢者、どっちがスゴイのか。そんな発想から大学を創るっていうのはどうだ?」
目からウロコだった。

厳しい環境の中で生き抜いてきた村の人々の暮らしからこそ、次世代に伝える大事なこと、いわば普遍的価値を導き出せる。
そう信じて34年、この実践を続けてきた。
単なる民間団体の実践の域を超え、本質的な教育改革につながるよう政策提案も続けてきた。
国の政策とはマッチしないだろうが、都道府県や市町村といった地方自治体、とりわけ小規模自治体の政策には一定の影響を与えてきたと自負している。
こどもの自主性を重んじた教育活動を地域が一丸となって展開されていること、地方高校の国内留学制度の拡充などは、その一例だと考える。

―小さな地域の暮らしに立脚した学びー
地域の教育力は、これまでの教育のステレオタイプを凌駕する。
その教育力を全身に纏ったおじいま・おばあまは、蓄積された知識・知恵はもちろん、実践・経験の価値は、すでに東大の教授並みだ。
いや、もしかするとそれ以上かもしれない。
彼らが堂々と教授になる大学を、この人口1600人の泰阜村に創る。
そんなことを考えるだけでワクワクする自分は、ちょっとおかしいのかもしれない(笑)

立教大学「自然と人間の共生」の授業を受け持って10年。
最初の年の2011年から、泰阜村のおじいまを東京まで連れていってゲスト登壇をしてもらった。
簡単に「いいよ」と言ってくれたわけではない。
往復10時間の移動もそうだし、何より人前で話すことをあまり好まないひとびとだ。
加えて、その高齢者にゲストとしての価値があるか、つまり高等教育に必要なのか、を大学側が判断する。
「そんなの無理」と相手にされない時から、村に大学を創るその真意や想いを常に説き続けてきた私の想いが、おじいまにも大学にも伝わったからこそ、実現してきた。
改めて立教大学には感謝したい。

「じゃ、わしの集落からやってみるか」
今年前期、村の木下藤恒さんが、オンライン授業に登壇してくれた。
木下さんは、村最奥の集落に住んでいる。
その集落は栃城(とちしろ)という。
この地域では「とんじろ」と呼んでいる。
鳥も通わぬと言われた集落だ。
長野県の最高レベルのへき地は2つと言われたが、その一つである。
ちなみにもう一つは、県の北端の栄村にある秋山郷である。
拙著「奇跡のむらの物語 ~1000人の子どもたちが限界集落を救う!~」には詳しく書いたが、この集落の存亡をかけて養殖漁業を立ち上げ、奇跡的に持続可能な集落にしたスーパーマンだ。
豊かな自然を財産と想うことができずに、「こんな村にいては将来がない」と、こどもたちを競って都市部に送り出した。
残ったのは、高齢者と手が入らなくなった山。
そんな絶望的な地域に、どうして残る決断をし、生き抜いてきたのだろう。

実は木下さんは、今回が初めてのゲストではない。
ここ2年ほど、1コマ100分の授業のために、毎年東京まで出てきてくれている。
“とんじろ”から東京まで片道6時間。
頭が下がる想いだ。
私は木下さんを尊敬し、師匠だと想っている。
「「わしゃ、生まれ変わったら教師になりたい」
20年前の木下さんの言葉は、私の魂を激しく揺さぶった。
都市部から2週間のキャンプに来たこどもたちが、この村の、この地域の“良さ”を楽しそうに口にする。
それを聞いて木下さんがつぶやいたのだ。
「辻君、わしは、この村の良いところを、村のこどもたちになんにも教えてこなんだ。だから、わしゃ、生まれ変わったら教師になって、この村の良いところをたくさん教えてやりたい」
それ以来、ずっと私の師匠である。
いつもいつも、こどもたちの活動の傍にいてくれた。

昨年、木下ご夫妻は立教大学まで来てゲストスピーク

そんな木下さんが「しょうねえな(仕方ないな)」とサバサバという。
「東京に行けねえんならしょうねえな。ここ(とんじろ)で授業やろう。辻君、できるら?(できるだろう?)」
正直、恐れ入った。
最奥の集落でオンライン授業なんて、最初(はな)から無理だと想っていた。
そう想った自分のステレオタイプが、軽やかに崩れていく。
そうだ、ここでやればいいんだ、ここからリアルタイムで配信すればいいんだ。
それは自分がやりたかった夢ではないか。
木下さんが大学教授になるのだ。

“とんじろ”でパソコンに向かって、訥々と話す木下さん。
私はできる限り、集落の様子をカメラで追った。
集落の若者がライブで大学講義をやってるということ聞きつけて、今捕まえたという大きなヘビを見せにきた。
「ばかこぞう(こぞうとは少年という意味の方言)、そんなもん持ってくるな。学生さんが驚くじゃねえか」と苦笑する木下さん。
授業の休憩時間に、そんな裏のやりとりもリアルタイムで流した。
一瞬で寄せられる学生200人の質問に、孫に語り掛けるように、落ち着いた口調で答える木下さん。

正直、どうなるかとも思っていた。
しかし、驚くべき学生の反応だった。
話がうまいわけでもない。
むしろたどたどしいくらいだ。
しかし、そんな話術よりも、どんな逆境でも生き抜いてきた生き様が、学生の心を揺さぶったのだろう。

授業後にあっという間に集計されるリアクションペーパーには、ほぼ全員が、今までになかった素敵な学びだった!という感想が並んだ。
リアクションペーパーを読んだ木下さんは、ニヤリと笑ってこうつぶやいた。
「東京とは違ってホームだから気楽だ。秋もあるんづら?(あるよな) 次は何を話そうかな。あれを生で見せるか…」
私の師匠が、学び続けている。
それが、心底うれしい。
そして木下さん、あなたはもう、本当の教師になりましたよ。

木下さん81歳。
彼を必ず大学教授にする。
村のおじいま・おばあまが教授陣の大学を創る。
東大の教授と泰阜村の教授、どっちがスゴイか勝負する。
ま、どっちもスゴイんだけれどね。
こんな夢を皆さん、どうか応援してください。

そしてこれらのやりとりを取材いただいた信濃毎日新聞の上沼記者に感謝。

オンライン授業は私にとって、泰阜村にとって、夢の実現の始まり始まりなのだ。

代表 辻だいち