学生と“学びの旅”に出た ~今、東北を、福島を歩く~

もう3月。
そして東北にまた強い地震が起こった。
被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。

この記事も、東北の話だ。
時を1月に戻す。

1月17日、私は福島にいた。
いや、正確には“私たちは”だ。
27年前、神戸を襲った大地震の日。
学生と“学びの旅”に出た。
コロナ状況が最悪に向かう時期に。
迷いがなかったわけではない。
それでも事前に自律的に行動する学生を信じた。
東日本大震災も、もう11年の前のことだ。
当時まだ小学生の学生たち。
この後の世代は、当事者意識、当時代意識がさらに薄れていってしまう。
そんな危機感もあった。

今年、4つの大学から学生が集うインカレゼミを展開した。
“学び”と“地域創生”がテーマだ。
立教大・青森大・千葉大・国際基督教大と、多様な感性を持つ学生が集い、議論する。
これが良い。
オンライン授業だからできることでもある(一部対面もあったが)。
対面授業だけだったら、複数の大学の学生が時間を合わせることは難しかったかもしれない。

半年のゼミを経て、学生から「地域の現場を見たい」という声があがるのは必然か。
ゼミには全国の地域で、このゼミのテーマに取り組む人にゲストに来ていただいた。
もちろんオンラインだ。
ゲストが暮らす地域を、その目で、その耳で、その肌で、感じ取り、学びたいという欲求が、学生たちから湧き上がっていることが、手に取るようにわかる。
コロナ拡大の最中、学生たちの自律が試された。
学生に伝えた「持ってくるもの」は、「やる気」と「被災地への敬意」だ。
被災地に限らず、地域に入る際の作法でもある。
これらひとつひとつが、学生にとっての生の学びになる。

福島県鮫川村。
ここに盟友ともいうべき人がいる。
進士徹さん。
あぶくまエヌエスネットという、まあ、ひらたくいえば同業者である。
自然、地域、暮らし、こどもなど、多くのキーワードで価値観を共有できる、数少ない盟友だ。
震災直後の4月、進士さんのところに来て、無事を確認した。
いや、その瞬間から「福島のこどものために」と彼は燃えていた気がする。
私もまた、信州から「福島のこどものために」と駆けつけたのだから、意気投合するのは自然の流れ。
そんな進士さんに、ゼミのゲストをお願いした。
学生たちは強く反応し、「行こう!」となったわけ。

▲鮫川村の進士さんの農場 学生の笑顔が弾ける

訪れた鮫川村は、体の芯まで凍える寒さだった。
進士さんがこだわる有機栽培・自然農法などを少しだけ手伝わせていただいた。
夜は、「楽しくてしょうがない」と跡を?継いだというか、ベンチャー農業に邁進する息子さんの陽平君を交えて、多くの言葉を交わした。
翌日は、なんと鮫川村の関根村長まで駆けつけてくれて、学生たちに熱いメッセージを直接送ってくれた。
いずれも、オンラインだけでは手にすることが叶わない生きた学びだ。
震災の時、鮫川村のこどもたちを「信州こども山賊キャンプ」に招待した。
その流れで、鮫川村の少年野球チームを泰阜村に招待することにもなった。
泰阜村の横前村長(当時副村長)が鮫川村に「安心してこどもを預けてください」と足を運んだ。
支え合いの縁を丁寧に紡ぐことを、私は「支縁」といっている(私が造った言葉)。
同行した学生たちはその「支縁」の意味を、少しだけわかってくれたかもしれない。
たった1泊の滞在だったが、学生たちは心も体も躍動した。

▲学生が野菜の種を植えた

▲学生のまっすぐな想いに鮫川村長が来てくれた

鮫川村を後にして、学生と福島沿岸を歩く。
福島は、放射能、地震、津波、風評という、世界的にも珍しい複合被災地だ。
富岡町の巨大な防潮堤に立つ。
原発(福島第二)が近い。
双葉町の福島第一原発付近では、土地を埋め尽くすフレコンバック(放射性汚染物質の入った黒い袋)を見た。
歩いてすぐの地に、行き場を失う汚染水タンクがひしめきあっている。

▲福島第二原発が近い。3月に起こった東北地震、そしてウクライナ侵攻、自然災害と核、戦争に、学生は何を想う


浪江町の「浪江町震災遺構:請戸小学校」を訪ねる。
目の前にはおだやかな太平洋が広がる。
この海にいくつもの命がひきずりこまれていったんだな。
海の彼方から、声にならない無念の想いがかすかに聞こえてくる気がする。
初めて被災地に足を踏み入れる学生は、小学校の窓から海を見つめたまま立ちすくんでいた。
この夜、トンガ噴火による津波警報が発令された。
この瞬間に福島に立っているという事実を、学生はどう捉えるか。
一歩足を踏み出したからこそ迫る、圧倒的な生の情報に、学生は戸惑う。
それが学びの旅の醍醐味だ。

▲こんなに学生が増えたインカレゼミ。震災遺構に涙した

▲言葉にならない

飯舘村にも足を運ぶ。
村で唯一の帰還困難地域の長泥地区。
そこは、驚くべき凄惨な地だ。
国が、なかったことにする、見なかったことにする、つまりは「隠してきた」地。
事故後1日、2日で避難した富岡、双葉、大熊、浪江などと違い、30キロ圏外ということで安全と言われていたがゆえに、1ヶ月以上もそこにとどまってしまった。
国や県はその危険な情報を握っていたにも関わらず。
情報を隠され続けたひとびと(こどもや妊婦を含む)が浴びた、1か月間の線量は、どれほどのものなのか。
その検証も、そして隠し続けた反省もないままに、今、再稼働に突き進む日本に、飯舘村の住民はどう想うのか。
その声を、今、聞かなければならないと心の底から想う。
何度も足を運んでいるが、今回もまた長泥地区の前区長さんや、環境省の人たちに丁寧に対応していただいた。
学生たちに、まるで孫に向き合うかのように話す前区長さんの顔。
これまで帰還困難区域の未来を背負う立場で10年間、ずっと険しかった顔と打って変わって、どこまでも心優しい顔だった。

▲飯舘村の区長さんに、3日間、お話を聴いた

▲区長さんを招いての、現地インカレゼミ

福島市に行く。
飯舘村出身の女性とも会う。
あの日から村を出て福島市に住む。
信州こども山賊キャンプに飯舘村のこどもを招待する時の担当者だった。
子育てをする同志としてもやりとりしてきた。
子どもを抱える親の想いを聞くことは、学生が被災地を多角的に考える機会になる。
そんな想いに応えてくれた。
訥々と話す内容に、10年の葛藤と希望が交錯する。

▲飯舘村の若い母親にお話を聴く

その後、暮らしの学校「だいだらぼっち」に2年間預かった(震災支援)こどもと会う。
こどもといってももう22歳。
私にとっては、暮らしを共にした仲間であり、教え子であり、娘のようなものだ。
そんな彼女と、学生たちが想いを交わしている。
それが、とてもうれしい。
私の役割はすでに、被災地の今のこどもを支えるステージから、あの時支えた被災青年を次の学びへといざなうステージに深化している。
彼女の学びと、学生の学びが、時を超えて連なっていく。
その学びの連鎖を支えていくのだ。

学生の学びは寄り道回り道を繰り返している。
それでも、底抜けに明るいインカレゼミの学生たちが、4日間福島を闊歩した。
阪神大震災の日を、東北福島で迎えた。
1.17が「いいなの日」になるその時まで、学生と共に被災地から学ぶ。

鮫川村の進士さんから学生に「芽が出たよ」と送られてきた

▲別れの時に「また来てくれよ」と飯舘村の区長さん

代表 辻だいち