“学生発”未来への問い ~福島を旅して~

今少し、東日本大震災について綴る。

1月に学生を福島に連れて行ったことは先の記事にも記した。
コロナ禍のなかで、どうして東北に足を運ぼうと想ったのか。
もちろん、今、東北の状況を次の世代に伝えなければ、という渇望感があった。
そして忘れてならないのは「学生の学び」を強烈に支えたいという想いだ。
「あれから11年」というコトバに意味があるのか、とも想う。
それでも私たちが紡いできた被災地との縁を、改めて紡ぎなおそう、その場に学生も居合わせてもらおう、それが彼女たちの学びを支える、という気持ちが強かった。
今の福島を、ありのままを見せよう。
被災地のひとびとの生の声を、ありのまま聞かせよう。
私のこの想いに、福島のひとびとは快く応えてくれた。
彼女たちは私の娘のようなものだ。
ということは、福島のひとびとにとっても、娘のようなものだ。
次の時代を担う学生たちを、地域を超えて、時を超えて、育てるのだ。

学生たちと4日間一緒に被災地を周った。
コロナで学生同士の学びが止まった2年。
ゼミ単位での合宿や実習もまた止まった。
その替わりになるものではまったくないが、それでも合宿だ。
そんな楽しみも少しだけあったかもしれない。

同行した学生に、1か月後、簡単な感想を書いてもらった。
当然のことだが言葉にして残し、フィードバックを受けるためだ。
彼女たちには「難しく考えなくてOK。レポートでもなければ、論文でもないし、テストでもない。うまく書く必要はまったくない。想っていることを率直に書くことが大事」と伝えた。

ここは、学生の感想を、そのまま掲載する。
ほとばしる想い、若いがゆえの感性、そして未来への問い。
まとまっていないところがいい。
被災地を見て終わりではない。
ここが始まりなのだから。
今後、長い時間をかけて、コトバを自分のものにしてもらうといいな。
ぜひご覧いただきたい。

 

2回目の福島合宿に参加してみて、今回は東日本大震災自体について考えることが多い時間になったと感じています。9月に福島の沿岸部や飯舘村に行った際には、原発や原発事故について知ることで終わってしまうくらい、自分の知らなかった事実が多く、衝撃を受けました。今回再び足を運んでみて、永遠に続くような高い防潮堤や当時のまま残る帰宅困難地域、長泥に積まれる多くのフレコンバッグなど、まだ見る度に考えさせられる光景に慣れることはなかったですが、「これらをどうしていけばいいのか」考える隙間が出来たような気がしました。また、請戸小学校の震災遺構に足を運んだ際には、津波の恐ろしさを初めて映像では無く目で確かめました。筒抜けになった校舎を見ているだけでも、とても怖さや不安な気持ちを感じ、当時の地元の方々のことを考えると、本当に恐ろしかっただろうなと思いました。目に見えない原発事故も、目に見える津波の被害も、地震がもたらしているものだと考えると、私たちはもっと備えなければならないと感じます。これから社会人として何十年生きていくとして、その間に起こる地震に対して、もっと対策できることはあるのでは、と感じます。また、東日本大震災で被害を被った東北の地域に対しての、国の取り組みを注視することも私が出来ることの一つだと思います。モノ言う株主の様に、政治に意思表示を示していけるようにしたいです。今回の合宿でも、沢山の方が温かく迎入れて下さり、貴重なお話をお聞きする事が出来ました。までいの心がとても有り難く、またぜひ足を運びたいと思っています。


今回で3回目。毎回いくつものモヤモヤが残る。これが福島合宿のイメージ。福島に行こう!と思う反面、また悩むんだと考えてしまい実は重い足取りだったりもする。そんな中でも行動に移せるのは仲間がいるからだ。
初回は先生と2人。何も分からない異空間で、ドラマの世界だと思いたかった。2回目は少し余裕ができ、被災者の心理の変化が気になり始めた。3回目は、何度見ても学んでも出口がなく悩むことを知った。振り出しに戻った感覚に近い。
私たちができることはなんだろうか、被災者に寄り添った支援とは何かとよく考える。その中で、忘れないことと学びを止めないことを大切にしている。なぜなら被災者の方は、忘れられることを最も恐れているからだ。学べばまた悩むことを知っているが、私は知る必要性があると思う。仲間のいる学びは目の付け所が異なって面白い。それがまた自分の力になる。これからも仲間と共に学びを深めたい。


初めて福島の被災地を訪れ、震災に向き合う方々との出会いを通して、様々な感情を抱き、私自身何も知らなかったことを痛感しました。小学生だった震災当時、テレビで見た津波映像の衝撃は今でも覚えていて、学校などで震災について学ぶことも多かったため、東日本大震災についてある程度の知識はあるつもりでいました。しかし、今回被災地を初めて訪れたことで、私が知っていたことはほんの一部に過ぎず、まだまだ見えていない多くの問題や人々の苦しみがあることを実感しました。
今回特に印象に残っているのが、飯舘村長泥地区の実証実験プラントを見学し、当時区長だった鴫原さんからお話を聞いたことでした。震災から11年がたった現在も未だ住民は帰れないままで、人気のない町の様子は時が止まったようでした。その一方で、鴫原さんをはじめとする方々がどうにか現状を換えるために必死に動き続けている姿も印象的でした。津波のように流されてしまって何も残らない被害と、放射線による汚染のように爪痕が残り続けている被害、災害といっても様々な被害の形があることを学びました。地区を守るために難しい決断を行ってきた鴫原さんのお話を聞き、復興とは何を指すのだろうということも改めて考えさせられました。国が行っている復興は本当に地域に寄り添ったものなのか多くの疑問を感じました。また、原発事故のように、人口が少なく資金力もない地方へしわ寄せが行き、都市部の住民の利益が優先される日本社会の構造にも目を向ける機会となりました。電力を消費して豊かな生活を送っている関東圏の人々が、苦労を強いられている福島の人々の思いに少しでも目を向け、気づくことができるような社会にしていくべきなのではないかと感じました。
未だ自分自身が被災地や被災者の方々に対して、どんな立場でどう向き合っていくべきなのか明確な答えは出ていません。しかし、今回感じたことを周囲に伝えていくことには、今後起こる災害の被害を防ぐためにも大きな意味があるのではないかと感じています。今回の福島合宿を通して何も知らなかった自分を知ることができたため、今後も福島の人々とのつながりを大切に、現場で経験して感じる学びを続けていきたいです。


私は学生になってから、宮城と福島を訪れたことがある。津波で残った建物の遺構などを目の当たりにし、その時の私は被災者が経験した計り知れないつらさや大変さを分かろうという一心だった。今回再び福島を訪ねることになり、自分が被災地としての福島に行く意義を考えた。そしてそれは、被災者への同情ではなく、現状の改善や今後の災害に備えて考えることだと思った。歴史から教訓を得るように、災害の経験から今やこれからについて考えることが、自分がすべきことだと感じた。
  他方で、東日本大震災の被災地には、地域間や地域内の人々の間で軋轢といった目に見えない課題があることに驚いた。知らないことがたくさんあるだろうと想定していたけれども、自分が今までニュースなどの限られた情報に左右されていたことを実感した。情報社会の今日は日々数え切れないほどの情報が行き交う。その情報は本当に正しいのか、他の見方があるのではないか、と考えることを忘れずに情報と向き合っていかなければいけないと思った。
 次に福島を訪れたら、福島はどんな風に変わっているだろうか。長泥地区に、人は戻っているだろうか。「もしどこかで原発が起きたら、そこで出た廃棄物はその地域でどうにかしてほしい」という鴫原さんの言葉がとても印象に残っている。どこかで同じような災害が発生したら、長泥地区がさらに廃棄物の集積場と化してしまうかもしれない。今回見聞きしたことを自分事としてとらえ、将来起こりうるさまざまな災害に備えたい。


私は、2日目のいわき市の資料館や請戸小学校で見たものや感じたことは衝撃が強すぎて自分の中で上手く消化できなかったのに、なぜ3日目の飯館村長泥地区の光景はあんなに冷静に受け止められたのだろうかと考えながらこの1ヶ月を過ごしました。
 私の考えた理由は、長泥地区では人の感情があまり感じられなかったからというものです。鴫原さんのお話を聞いていたものの、実際に訪れた飯舘村長泥地区は村ではなく、巨大な工場設備がある場所としてしか長泥地区を捉えることができませんでした。過去の人々の生活の様子や住人の方の思い、前を向いて進もうとする気概などが驚くほど感じられませんでした。それは、2日目とは対照的な体験でした。私は社会科見学をするような、ある意味軽い気持ちで長泥地区を訪れてしまったのだと思います。長泥地区が村に見えなかったことは、良いことではないと思います。こんな風に感じたのが私だけであってほしいと思います。避難指示が解除になってもあそこで再び人々の生活が始まるところが私には想像できません。それでも、鴫原さんをはじめとする多くの人が村を取り戻すためにギリギリのところで踏ん張っているのを学んだからこそ、長泥地区が村として復興することを願わずにはいられません。

 

ここのところ、毎年東北に大きな地震が続く。
学生たちの学びが、小さくとも強いうねりとなって、福島に届くことを願う。


代表 辻だいち