国全体で子を育てる政策へ 山村留学の今とこれから 本質は「不便さの学習」 日本農業新聞

日本農業新聞に「山村留学の今とこれから」というテーマで大きく紹介された。
というか原稿を自ら執筆した。
32年の経験をもとに、独自の視点で論じている。
最後に記した「提案」は、私の夢でもある。
ウエブサイトでは紹介されなかったため、記事の書き起こしで以下に紹介したい。

2018年11月18日(日)
日本農業新聞

現場からの農村学教室 116
テーマ 山村留学の今とこれから

NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター 代表理事 辻英之

国全体で子を育む政策へ

〇ポイント
1.過疎地域再生の中心
2.全国で参加者が激減
3.刹那的な移住策と訣別
4.本質は「不便さ」の学習

 長野県泰阜村。人口わずか1600人の山村だ。今なお国道も信号もコンビニもない。産業も廃れ、若者の流出で疲弊しきった山村を、再生する切り札など存在しないかのようだ。そんな村の住民にとって、「村の自然環境が〝教育〟によい」と考えるNPOが1年間の「山村留学」を実施すること(1986年)は、到底理解できないことだった。
 当時はIターンやNPOという概念がまだ市民権を得ていない。しかも森林や田畑などの自然を資本にしたなりわいを諦めつつあった村民にとって、彼らは「招かれざるヨソ者」だった。しかし今、この「山村留学」は社会的事業に成長した。小さな村にあって20人弱の若者を雇用するNPOは「優秀な大企業」だ。スタッフは村に居住し、結婚して家庭も持つ。自治会や消防団など、地域を支える組織の担い手としての期待にも応えた。
 ヨソモノの動きに呼応して、村の有志がNPOを立ち上げて民宿や農家レストランの運営を始めた。さらに、子どもの週末や放課後の体験活動を支える仕組みや、大学生や若者夫婦が自然や民家で学ぶ仕組みなど、自主的な活動が組織化され始めている。
 このような「自律」への取り組みに刺激され、若者のU・Iターンが増えて(ここ7年間で114人)青年団まで復活した。「山村留学」の卒業生がIターンで村に定住する現象(Sターン)も始まり、村に3つあった限界集落は消滅しつつある。「山村留学」が地域再生の中心に位置付き、疲弊しきった山村に希望の灯がともりつつある。

 ここで「山村留学」を整理しておく。山村留学は1976年に長野県八坂村(現大町市八坂)において公益財団法人育てる会によって生み出された。都市部のこどもが1年間村に住んで学校に通いながら、自然豊かな環境の中でさまざまな体験をする。高度経済成長の陰で生きる力を失う子どもへの危機感も相まって、全国的なブームとなる。
 しかし全国で860人の参加があった2004年度を境に参加者は激減している(2017年度は562人)。急激に衰退した要因には、少子化や自治体合併、学校統廃合などが挙げられる。しかしそれは表面的なものに過ぎない。筆者はその本質的な要因を、地域再生に顕著な成果を生み出している冒頭の泰阜村の事例から、独自の視点でひもといていく。

 泰阜村の山村留学はNPOグリーンウッドが独立採算で運営している。全国から集う子ども(20名ほど)が、1年間の共同生活を営みつつ村の小中学校へと通う。子どもが食事、や風呂たき、掃除、洗濯など、暮らしの一切を手掛けていく。
 「困ったときはお互い様。みんなで解決する」という村の「寄り合い」の風習を、そのままいかした子ども主導の暮らし。ストーブや風呂の燃料はすべて村の里山から間伐したまき。田んぼや畑でお米や野菜を育て基本的な食材は確保し、敷地内の手作りの登り窯で焼いた食器でご飯を食べる。暮らしのあらゆる部分に、村の地域力や教育力を生かすことを30年間揺るぎなく続けてきた。

 ブームにもなった山村留学の裏側には、実は「便利さ」のサービス合戦があった。個室で冷暖房完備、食事や洗濯、掃除まで大人がやってくれるという、家よりも便利な山村留学事例が相次いだ。なぜそうなってしまったのだろうか。
 答えは簡単だ。児童減少に悩む自治体が、「山村留学」を「学びの政策」から「刹那的な移住政策」に変質させてしまったからだ。小・中学校の存続を掛けて、手っ取り早く子どもを移住させる。それが山村留学になってしまった。4月1日に児童生徒が何人この地域に「移住」してきたのか、その数字が大事なのだ。子どもがその地域に来た時点でゴール。その後はまさに「お客さま」。便利さや価格の安さを売りにして都市部の子どもを獲得しようとした。
 山村において都市部より便利な暮らしをするという構造的な自己矛盾。都市部の親子の支持を瞬く間に失い、多くは継続難に陥っていった。

 これに対して泰阜村の山村留学では、子どもが1年間暮らしていく中で「面倒くさいことが楽しいんだ」とつぶやくようになる。その言葉にハッとさせられる。そもそも、自然体験や暮らしは「不便なもの」だ。換言すれば「思い通りにならない」ということになる。その「思い通りにならない不便さ」こそが学びの土台になるのだ。山村留学は、山村の「不便さ」いう土台で学ぶからこそ山村留学なのだ。泰阜村はその本質を貫き通したから成功しているといえる。

 残念ながら山村留学は、都市部の子ども健全育成という当初の理念とは裏腹に、常に山村側の自己都合で進められてきた。断言しよう。村の子ども減少を都市部の子どもで補填(ほてん)するという「刹那的な移住政策」と決別しなければ、今後の山村留学の普及や発展はない。

 最後にせんえつながら山村留学が発展するための提案をしたい。複数の小さな地域(農山漁村)同志がネットワークを構築し、それぞれの子どもを一斉に交換留学させるという提案だ。交換だから「おらが村」の子どもの数は増えない。しかし1年間、さまざまな地域の生活を体験した子どもが自らの地域を見つめる眼を養って本拠地に帰ると想えばおつりがくる。留学に係る経費は、子どもを送り出す地域(自治体)が負担する。送り出す責任と受け入れる責任を、それぞれの地域が同時に負う仕組みを全国的に創る。義務教育9年の間に1年間、希望した子どもは他地域で留学ができる。「かわいい子には旅させろ」を政策化するということである。
 山村留学は、「刹那的な移住政策」と決別し、オールジャパンで子どもを育てるダイナミックな政策として展開する時期に来ている。根本から問い直すべきだ。山村で山村留学をする本質とは何なのかを。

つじひでゆき 1970年福井県生まれ。人口1600人の泰阜村に移住して25年。「何もない村」における「教育」の産業化に成功した。NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター代表理事、青森大学客員教授など努める他、「泰阜村総合戦略推進官」として「教育立村」の実現に向けて奔走する

オールジャパンで子どもを育てる政策、一緒にやりませんか。

代表 辻だいち