こどもたちは“多数決の危うさ”をしっかりと見つめている ~私たち大人のふんばりどころだ~

暮らしの学校「だいだらぼっち」では、物事を多数決で決めない。一人でも反対者がいれば、その人の意見に耳を傾ける。仲間と暮らすうえで困ったことは、何時間でも何日でも、時には一年かけてでも、自分たちが納得のいくまで話し合って決めてきた。

かつて10対1の意見対立があった。いくら多数決がないとはいえ、1の意見に10の意見がひっくりかえることはまずないだろうと思っていた。それが見事にひっくり返ったことがある。「従来の多数決」ならあっという間に除外された1の意見。しかし、1の意見を大事にしようとしたこどもが10人いたのだ。

私は想う。こうした自分(と自分の意見)が大切にされている経験を重ねること、そして相手(と相手の意見を)を大事にするという経験を、丁寧に積み重ねることが、今のこどもたちに求められているのだ、ということを。

私は実は多数決はあってもいいと思っている。ただし、私が出会うこどもたちは、多数決の本質を学ばないまま「多数決」を使っていると感じる。こどもたちが使う「多数決」は、例えば最終採択で10対9の結果が出た場合、「10の勝ち」で「9の負け」を意味している。「9の意見は抹殺すればいい」という解釈を学んできてしまっているのだ。そして「多数決は民主主義だ」とも。

しかし、民主主義=多数決ではない。本来「多数決」とは、少数意見を多数意見に反映するための決め事だったのではないだろうか。少数意見に耳を傾け、尊重し、多数意見に少数意見を反映する調整をして結論を出す。時間はかかり、ときには少数意見に近い結論にひっくりかえるときもあるだろう。このような「一人一人(の意見)を大事にし」つつルールや結論を決める、という民主主義の土台を教えていくのが「教育の役割の一つ」だと強く想う。

でも、私が出会うこどもたちは、そんな教育を受けていないように思えてならない。私は、「少数意見を尊重する多数決」であれば使っていいと思うが、「少数意見を抹殺する多数決」は使わない。こどもたちが、「少数意見を尊重する多数決」を学習して社会に出ていくために、暮らしの学校「だいだらぼっち」では「少数意見を抹殺する多数決」は使わないのだ。

こどもの自覚と責任でまわす暮らし。こどもの参画と自己決定を大事する暮らし。一人一人を大事にする暮らし。それはまさに民主主義を学ぶ場だ。暮らしの学校「だいだらぼっち」の暮らしは、話し合いの中での議論を通して、民主主義を具体的に学ぶ場でもあるのだ。

翻って、先日行われた参議院選挙。1人を選ぶ選挙区の選挙は、まさに「多数決」だ。全国を見渡せば、僅差で勝敗が分かれた選挙区もあった。おそらく51%対49%という対立だったのだろう。さて、この場合の「多数決」は、「51の勝ち=49という少数意見を抹殺する多数決」だろうか、それとも「49という少数意見を尊重する多数決」だろうか。

政権党の得票率(2割に満たない)と議席獲得率(5割を超す)に大差があり、民意とかけ離れている、と言われる。それは「死に票」という文字が表すように、少数意見が抹殺されることを前提にしているからだろう(選挙制度自体が歪んでいる?)。少数意見が尊重され、多数意見に反映されるのであれば「死に票」にはならない。しかし、現実には「死に票」と言わざるを得ない、あたかも多数意見が強いような政治が繰り返されてきた歴史だった。

参議院選挙を経て、少数意見が死なないように、多数意見に反映される政治になるのだろうか。それとも、またぞろ少数意見をまるで無視するような、多数が強いと勘違いする“思い上がり”の政治になるのだろうか。それが問われている。次の時代を担うこどもたちは、実はそこをしっかりと見ているのだから。

本当の意味での民主主義を、こどもたちに培ってもらいたい。令和最初の夏に、強く思う。私たち大人のふんばりどころだ。

代表 辻だいち