だいだらぼっちの卒業生にインタビュー なおみ(1988年度参加)

だいだらぼっちの経験は30年経った今でも心に残る暖かい経験であり、その経験をしたことで、新たに羽を伸ばせていけてるのは事実

だいだらぼっちの卒業生・保護者にインタビューするこの企画、今回はだいだらぼっち3期生のOGなおみです。

なおみちゃんは、だいだらぼっち三年目(1988年度)に、中学2年生の一年間をだいだらぼっちで過ごしました。今回、めっちゃたくさん語ってくれていますので、長文ですが、最後までどうぞお付き合いいただき、お楽しみください。
それではインタビュースタート!

ーこんにちは、お久しぶりですね!早速ですが、簡単に自己紹介をお願いします。

通年3年目、中学2年生の時に参加していたなおみです。(なおみちゃんたちが暮らしていたころは、「暮らしの学校」ではなく、「通年合宿所」と言っていたので当時のメンバーはみんな「通年」と呼びます)
今はチェコのプラハでチェコ人の旦那と息子と3人で暮らしています。

結婚してしばらくは語学学校でチェコ人に日本語を教えていましたが、語学学校での授業はどうしても夕方から夜になってしまうので家族との時間のズレに悩み、息子が小学校に入学した頃からプラハにある日系企業に就職。経理を担当して早10年。日系企業ではありますが、日本人は私だけ。日本語を話せるのも私だけなので、ある意味、色々な事を経験させてもらっています。その他に週一で継承言語の幼児クラスと小学生クラスで日本語を教えています。

趣味は歌とタップダンス。コロナ禍の前までは月1ペースでコンサートで歌い、イベントや大会でタップダンスを踊ってました。タップは個人ではチェコの国内大会、団体ではドイツのリーザで行われた世界大会にも出場しました。

ーなおみちゃんはチェコに行って随分長いですが、どのくらいになりますか?チェコの暮らしはいかがですか?

2002年からチェコに住んでいるので、かなり長いですね。
東京の新宿に住んでいた私にとって、当時はカルチャーショックが多すぎて、生活に慣れるのが大変でした。書き出すと長くなるので、またいつか別の機会に(笑)。でも18年も住んでいると国自体の色も変わってきて、今はものすごく住みやすい国だなあと思います。こどもやお年寄りには優しいし、社会保障もしっかりしてるし、オペラやバレエ、コンサートなども席を選ばなければ破格の値段で見ることができるなど文化や芸術に関してかなり身近に感じることができます。贅沢を求めなければ本当に住みやすい国です。

ーそもそもなんで、チェコに行こうと思ったのですか?

旦那がチェコ人なので、結婚してチェコにきました。東京での結婚生活は全く想像がつかなかったので、自然とチェコへ。

ーチェコに行ってから大変だったことはありますか?あれば教えてください。

チェコ語が全く話せない状態で結婚してチェコに移住したので、初めの頃は、言葉の壁が大きかったです。旦那の家族は、英語を話せる人がいなかったので、その都度旦那が通訳しなければならなかったし、スーパーの対面販売でも全く英語が通じなかったので、「英語はだめよ!」って門前払いされたり、外国人警察に書類を持って行った時も事務の人は英語が話せなくて、やたら怒鳴られたのを覚えています。でも何を怒鳴っているのか分かりませんでしたけど(^^;)。やっぱり大変なのは言葉でしたね。
ただ、家族はチェコ語のわからない私でも優しく受け入れてくれて、今は亡き旦那のおばあちゃんは、当時私に一生懸命ドイツ語で話してくれました。…って、私、ドイツ語も全く分からなかったんですけどね(笑)。でもその優しさが嬉しかったです。

ーチェコに行って、一番良かったことは何ですか?

旦那の家族が私を家族として受け入れてくれたこと。とにかく、そこまでするかってくらい優しい家族です。もし、今の家族じゃなかったら私のチェコ生活は半年も持たなかったでしょう(笑)

ーすてきな旦那様とご家族なんですね。
なおみちゃんは今何をしていますか?それはどんなことを想ってしていますか?仕事もですが、その他にも家族の事や趣味のことなど、色々含めて教えてください。

高校卒業するかしないかあたりから、舞台やCMのお仕事を始めました。色々な劇場でミュージカルをやらせてもらい、日生劇場や大阪のドラマシティのステージにも立ち、何度か主役で舞台に立ったこともあります。でもだいだらぼっちの仲間(さやちゃん)とスイスに行った時に、空の青と白い雲、緑が輝く大自然、そんなアルプスの丘の上で歌ってたら、通りがかったおじさんが拍手してくれたんです。

あ、もしかして私の求めるものってこれか?って。…どれだよ?(^^;)
なんかふっと思っちゃったんですよねえ。天使の声だったのか、悪魔の囁きだったのか(笑)。
それから、ワーキングホリデービザでニュージーランドに1年とオーストラリアに1年行ってきました。その時に出会った今の旦那と結婚、チェコに移住。
結婚当初は毎週末旦那の実家に行ってました。父方のおばあちゃんは森を持っていたので、トラクターで木を運ぶ手伝いをしたり、母方のおばあちゃんの家には大きな庭があり、ありとあらゆる果物で埋め尽くされているので果物の収穫を手伝ったり、とにかく週末は旦那の実家で過ごすことが多かったです。チェコでは田舎に住む人は大抵庭があるのですが、プラハなどの都会に住んでいる人も大抵は郊外に別荘を持っています。別荘というと金持ちか!って感じがしますが、そうではなく、一般的に多くの人が郊外に庭いじりができるような土地を持っていて、みんな週末は庭いじりをしに別荘へ行くんです。夏の間に収穫した大量の果物や野菜をジャムにしたり、瓶詰めにしたりして、長い冬を越すんです。生きるために必要な庭というわけです。まあ、今の若い世代はあちこち旅行に行くので、郊外に別荘を持たない人も多いですが。


共働きが当たり前のチェコ。チェコで仕事をするなら、日本語教師をしたいなと思っていたので、日本語教師養成講座を通信で受講。週末は8時間くらいドバーッと勉強して、通常一年かかるところを半年ほどで受講修了。その後、数年間、プラハの語学学校で日本語教師として働きました。でも日本語教師の仕事は大抵夕方から夜の時間帯。息子が成長するにつれ、家族とのすれ違いの時間に悩み、息子が小学一年生の時、私は36歳で人生初めての就職を決意、国際物流会社へ就職しました。事務経験のない私が、日系企業の経理として働くことに。
働く条件として、どうしても譲れなかったのは、息子が学校から帰ってくる頃には、家にいられること。強くて優しい子である事はわかっていますが、やはりハーフの子。見た目で傷つけられることは、どうしてもある。そんな時に、ぎゅっと抱きしめてあげたいと思ったからです。
というわけで早い時間に出勤、退勤させてもらいました。幸い経理なので、ある程度自分のペースで仕事ができたのがよかったです。なんだかんだと今の会社に11年。今ではすっかりお局様でございます。会社は私以外、皆チェコ人。チェコ人の上司は素晴らしく理解のある人で、彼無くして私のサラリーマン生活は考えらません。仕事で重要なのは、「質」。 自分の仕事が終わり、同僚が手伝いを必要としなければ、帰宅してもOK。押さえつけが全くない会社なので、自然とサボる人がいなくなる。同僚が大変そうなら手伝おうとする。お互いがお互いを助け合って、スムーズに仕事ができているので、無駄がない。しかもみんな家族みたいに優しい。そんな会社なので、私は趣味のタップダンスや歌が楽しめ、しかも日本語教師の仕事まで出来ているのです。(今は週1でハーフの子供達に日本語を教えています)
色々なことをやっているからこそ、メインの事務仕事にも気合が入るというものです。この会社に就職したことで、出張でイギリス本社に行ったり、日本語を話す人が私しかいないことから、チェコの商工会や天皇祝賀パーティーなどへも出席させてもらったり、新しい経験を沢山させてもらいました。
サラリーマン生活のおかげで、ある程度のローンが組めるようになりました。そこで、2019年、新たにプラハにアパートを買い、日本人向けの短期滞在型アパートメントの宿泊サービスを始めました。ベットを買い、布団を買い、タオルやシーツを揃え、Welcome to Prague!のはずが…。数組のお客様を迎えた後、これからゆっくり楽しんでやっていこうと思ったところで、コロナ禍。今は、旦那のテレワークの事務所になってます(苦笑)  まあ、でもいつか、また再開できる日を楽しみに、今は、旦那に快適なテレワークの場所が提供できたことに良しとしましょう。日本の皆様、いつかまた再開するので、その時は是非遊びにきてください! (^^)
チェコで歌を始めたきっかけは、なんと会社のチェコ人上司。2011年、彼に頼まれて彼の結婚式で歌ったら、気に入ってくれて「なおみのソロコンサートをやろう」と言ってくれたんです。

「昔取った杵柄」ですね。上司のオーガナイズで小さな教会でソロコンサートをしました。70人近くのお客様がきてくれて、ドキドキだったけど、久々に歌えてものすごく嬉しかったです。それから私の歌を聞いてくれた人から、ぼちぼちオファーがかかり、現在もぼちぼちあちこちで歌わせてもらっています。そして5年ほど前からウクレレバンドのおっちゃん達(メンバー13人)と一緒にチェコのあちこちでコンサートをするようになり、楽しい時間を過ごしています。コロナ禍の前は月に一度はコンサートをやっていました。コンサートがなければ訪れていないであろうチェコの街や村のフェスティバルに行けるので歌をやってて良かったなと思います。

タップダンスは、事務の仕事が慣れてきた頃に始めました。最初は、主婦が通う緩やかな…だらだらなコースに通っていましたが、そのだらだら感に満足できず、上のクラスに。そしたらそこからオファーがかかり、イベントなどで踊らせてもらうようになりました。でもまたそこでも満足できず、別のタップ教室の上級クラスへ行くと、2週間ほどで先生に声をかけられ、団体(12人から20人程度)での参加で世界大会へ出てくれないかと言われ、特別レッス
ンで猛練習。それからドイツで開催されるタップダンスの世界大会に3回ほど出場。そのうち一回は、ソロパートもゲット!

その後は、「団体での参加ではなく、少人数でやりたい」と言ってみましたが、100人近く生徒を抱えているので、時間的余裕がないので無理と先生に言われてしまいました。
どうしよっかなあ…と考え、それならソロでやってみようかなと無謀なことを考え始めました。そして自分で曲を選び、自分で振り付けを考え、チェコの国内大会に無所属でソロで出場しました。
この時45歳。おばちゃんの無謀な挑戦でした(笑)

チェコのタップダンスの国内大会で、無所属で出場したのは、鼻ペチャアジア人の私だけでした。(どのカテゴリーでもみんなどこかのクラブに所属していたので) ソロでの出場だったので、週末にスタジオを借りて一人で練習していたのですが、大会が終わった後、新たなステップを求め、別のタップ教室へ。そこでもイベントで踊るグループ(私を含めメンバー4人のうち3人はタップの先生)に誘われ、しばらく特別レッスンを受けていましたが、残念ながらこのコロナ禍でイベントが相次いで中止に。イベントが中止になることはダンスの先生達にとって死活問題。残念ながらグループは解散。習っていた上級コースは、人数が少なく次クールからは中級コースのメンバーが入るため、レベルが下がるので、またしても別のタップ教室を探し中。今以上のレベルを求めるなら、個人レッスンにするか?本場アメリカに行くか?・・・。が、私にとってタップダンスはあくまでも趣味なので、そこまでお金はかけたくない…。ということで、ただ今、新たなタップダンス教室を探すためプラハを放浪中~。
日本語教師としては、週に1回2クラス、ハーフの子供達に日本語を教えています。
絵本を読んだり、歌ったり、ゲームをしたり、文字を教えたり、私にとって、1時間の授業がお芝居のステージのような感覚で楽しいです。毎回汗だくで楽しんでます(笑)。
ちなみに歌やタップダンスの習い事って、お金かかるんじゃない? 優雅でいいわよねえ。って思うかもしれませんが、歌はコンサートの度にお小遣い程度ですがギャラが出るし、タップダンスは、上手くなって特別レッスン(大会やイベント用のレッスン)に参加させてもらえている時は、授業料が無料になりました。歌やダンスはあくまでも趣味ですが気合を入れてやるとお金がかからなくなります!むしろ稼げる!(お小遣い程度だけど)家庭も仕事も趣味も全て気合で楽しめ!…です。
私の趣味に関して旦那は賛成してくれてますし、コンサートやイベントには私がチェコのあちこちに行くので、その度に一緒についてきてくれます。彼にとっても行ったことのない場所だったりするので彼なりに楽しんでいるようです。なので、一緒に出かけられることも夫婦円満の秘訣の一つかなと思ってます。コンサートがなければ、私は「どっか連れてけ!暇じゃー!」と言って、面倒臭い嫁になっていたことでしょう(笑)。
優しい旦那に感謝感謝です。

息子は小学校高学年からずっと水球にやってます。
今は惚れ惚れする程の逆三角形の水球ボーイです。日本語も少しづつではありますが、嫌がらず続けています。でも高校生にもなると母親との趣味も興味があることも全く違うので2人だけでの会話が減り、かなり怪しい日本語です…。家族3人で話す時は、チェコ語なので、息子の日本語は綱渡りを渡っている感じですね。まあでも、いつか自分から本気で勉強したいと思ったり、日本に留学したりすることがあるかもしれませんから、プレッシャーをかけるのは、ほどほどにしようと思ってます。チェコの夏休みは丸2ヶ月あるんですが(しかも宿題が一切ない!)、息子は、サバイバルキャンプに水球合宿に大忙しで、夏休みはほとんど家にいない状態です。たくましく優しい子に育ってくれて、息子にも感謝感謝です。

ーうふふ、みけが質問しなくても聞きたいことを話してくれるところがなおみちゃんですね!
なおみちゃんは結婚もして、お母さんでもあるわけですが、家庭を持って自分の中で何か変わったことや気づいたことはありますか?

日本にいる母によると、「なおちゃんが家庭に入って生活することは全く想像していなかった」そうです。それほど若い頃の私は他人のことなど考える暇もなく、自分の道をひたすら突き進んでいたのかもしれません。でも結婚して家族ができて、安心感みたいなものが生まれて、色々なことから守られてるなって感じるようになりました。だから今は自分も周りの人を守りたいっていう気持ちが強くなったと思います。

ーなおみちゃん一家はどんな一家ですか?PR含めて教えてください!

私ひとりブーブー文句いって、それを旦那と息子が笑ってみてるって感じです。え?どんな感じって?
例えば旦那と息子は洗濯とか掃除とか料理とかほとんどしません。それに対して私がブーブー文句言っても、旦那と息子は「まだ掃除しなくても大丈夫だよ。汚れてないよ」「料理大変だったら、卵焼きでいいよ」「洗濯が増えないように1週間くらい同じT-シャツでも大丈夫だよ」って優しく言い返してきます。「いや、そうじゃなくて~!!」って私が怒ると彼らはまた笑って返してきます。これの繰り返し。でも分かってるんです。彼らがさりげなく重いものを持ってくれたり、パソコンとか携帯とか私に必要だろうというアプリをさりげなくアップしてくれてたり、医者に付き添ってくれたり。
なんていうか…旦那と息子に「何やってのよ~!まったくもう~!」って大人ぶって怒っているこどもみたいな私に対して、「はい。はい。」ってサラッと笑って受け流す大人なふたり(旦那と息子)って感じでしょうか。
素直で?単純な私はいい意味でいつも彼らに丸め込まれてます。あはは(^^;)。

ー(笑)バランスがとれているってことですね、きっと。ところで、なおみちゃんがいたころのだいだらぼっちはどんな感じでしたか?

こどもが20人、相談員4人。賑やかだったなあ。
永遠にまとまる事のないであろう話し合いをずっとしてた気がする。この話し合いが嫌いだったって子もいるけど、私にとっては、みんなの顔が一度に見れる大切な時間。実は私は話し合いの時間が結構好きでした(笑)
あの年はひたすら電柱の皮むきをやったり、山から木を運んできたり、わさび田作ったり、まだ3年目だったので、作業が多かった気がします。でも私は黙々と作業するのも意外と好きなので、皮むきも結構楽しかったなあ。木を運んだり、石を運んだりなどの力仕事も楽しかったです。
でもいろんな作業があるのに、やりたくないって言ってやらない子とかいたけど、じゃあ、何のために何をしにだいだらぼっちに来たんだろうって、疑問を感じた時もありました。その子には、その子の考えや感じ方があったんでしょうけど。
とにかく20人のこどもたちとの出会いは、チェコで感じたカルチャーショック以上のショックでしたね。同じ日本人なのに、しかも同じ言語なのに、こんなに意思疎通が難しい違う種類の人間がいるんだなあって。宇宙人に遭遇したのかと思いましたよ(笑)。

ーわかる!今まで出会ったことのない生物だよね、地球外生物的な(笑)。
そんな当時の出来事で一番印象に残っていることはなんですか?

一番は、だいだらぼっち祭りでの劇かな。
自分達で考えた台本(でも、個性強すぎて、アドリブのセリフが多かった気がする)あんなに面白い劇はなかなかないと思う。みんなが日本アカデミー賞主演俳優賞を受賞しても良いんじゃない?ってほど、素晴らしい演技だった。衣装だって、メイクだって、日本アカデミー賞メイクアップ賞受賞間違いなし?

祭りの劇ももちろん強烈に印象に残ってるけど、劇をやるにあたって、みんなで発声練習をしないかと提案したけど、やったのは最初のうちに数人だけ。最後には、ムサシと私の二人だけになったのを覚えてる。あはは。ちょっと気合が入りすぎちゃったみたい。
それからもう一つ、通年に参加している時に、父からもらった手紙が印象的で今も大事にとっています。あの頃は毎日が楽しくて、私がいないことに親が寂しさを感じていたなんてこれっぽっちも考えませんでした。こんな風に思っていてくれてたんだと離れてみてから親の思いを知りました。「親の心子知らず」です。しかも父の不安が的中してるところがすごいです。何せ私は今、地球の裏側にいますからね。(笑)
コロナ禍で私は帰国できず、オンラインでのお別れとなりました。とにかくやりたいことをなんでもやらせてくれた両親(父もすごいけど、母もすごい)。だいだらぼっちでの暮らしを体験できたのは両親のおかげ。チェコで暮らしていられるのも両親が笑顔で見送ってくれたおかげです。本当に感謝です。通年に参加しているときは、全く気にしなかった親の愛情や経済的な援助など大人になってからジワジワと伝わってきます。通年参加の意味は、楽しく過ごしたその1年だけではなく、その後の「人生の勉強」も含まれているなあと思いました。親ってすごいなあ。

ーこれは本当に一生の宝物ですね。なんて言うか、勝手に涙が出てきちゃいそうです。
だいだらぼっちでの暮らしは今のなおみちゃんにどんなふうにつながってますか、あるいはどんなふうに位置づいていますか?

だいだらぼっちでの暮らしは暖かい思い出。日本の家族もチェコの家族もそうだけど、暖かくて優しくて、いつでも帰ってきていいんだよって場所があると、思いっきり羽を伸ばして飛んでいける。。そんな場所。
だいだらぼっちが私にどんな変化をもたらしたのかはわからないけど、だいだらぼっち、通年の経験は30年経った今でも心に残る暖かい経験であり、その経験をしたことで、新たに羽を伸ばせていけてるのは事実。私はこう見えても(周りからどう見えてるかはわからないが)小さい頃から色々な事にチャレンジする子でした。習い事も、そろばん、日舞、水泳、ダンス、歌、お芝居などなど。だいだらぼっちに参加する前の年の中学1年生の時には、一人でニュージーランドでホームステイをしたこともありました。習い事にしてもだいだらぼっち・通年合宿にしてもホームステイにしても、両親から勧められたものではなく、全て自分からやりたい、行きたいと両親にお願いしていたものです。兄弟の中で一番、お金がかかっていたかもしれません(^^;)。中1で経験したニュージーランドでのホームステイはたった2週間だったけど、優しい家族との思い出が私の羽を強くしました。たった2週間でも暖かい経験として心に残っています。それが、通年合宿では1年間。そりゃ思い入れも強くなるってもんさ。
一つ一つの暖かい経験が、少しづつ私の羽を大きく強くし、だいだらぼっちの通年合宿も私の羽を一段と大きく強くしたのは事実だろうな。
そして、まさに今も毎日家族とともに暖かな経験を積み、私の羽はより強く大きく成長している…はず。(^^)

ーうん、かなり大きな羽だと思う…(笑)。
なおみちゃんが今夢中になっていることはありますか?あれば教えてください。その魅力も!

タップダンス:ステップを覚えるのは意外と頭を使うので、老後のボケ防止に最適!
歌: 大きな声を出すことは、ストレス発散!
日本語教師: 素直で可愛い子供達は天使だ~!
習い事をすることで色々な人に出会えたり、色々な場所に行けることも魅力です。

ーそんななおみちゃんの夢を教えてください。

コロナが落ち着いたら日本人向けの短期滞在型アパートメントを再開させて、日本からのお客様にチェコを楽しんでもらうこと。
定年退職したら、今やってる趣味(タップ&歌)にもっと力を入れてイベントでチェコ中を周ること。
定年退職したら、日本語教師としての授業を増やすこと。(子供から大人まで教えたい)
定年退職したら、別荘(今は、草ぼうぼうの土地)に五右衛門風呂を作って露天風呂に入ること。そして週末には孫と遊ぶこと。
定年退職まではまだまだ遠い道だと思ってますが、だいだらぼっち・通年合宿からすでに30年以上経ってしまっていることを考えると、そんな遠い日の話ではないかなと思います。やりたいことは沢山あるので、今は少しづつ地盤を固めていってます。

ーなおみちゃんらしい夢。ぜひかなえてくださいね! 最後に今のだいだらぼっちのこどもたちにメッセージをお願いします!

とにかく毎日、はっちゃけて!歌って!踊って!大きな声を出して!手伝いも仕事も遊びも、とにかく元気一杯がむしゃらに頑張ってやってみて!
そして、秋、ひぐらしが鳴く頃、たまにでいい。ひとつ大きな深呼吸をして、仲間の一人一人を観察してみて。
何してんだろう。なんで何もしてないんだろう。何で怒ってるんだろう。何で笑ってるんだろう。何で泣いてるんだろう。何で黄昏てんだろう。どんな思いでそれを見つめているんだろう。どんな思いでそれを聞いているんだろう。
とにかくこんなに色々な年代の色々な思いを持った人間に出会えるチャンスはなかなかない。貴重な人間観察ができるチャンスだぜぇ!

ーそのとおりだぜぇ!(笑) チャレンジしてきたなおみちゃんだからこそのメッセージ、ありがとうございました! 

みけがだいだらぼっちに遊びに来ていたころ、かわいらしい顔からは想像できない程強く固い意志をもった少女だったなおみちゃん。当時の中学校は部活必須だったけど、「私は部活をやるためにだいだらぼっちに来たのではない」と学校の先生にも伝え、他の人が朝練や放課後の部活に出る時間をコツコツと大きな木のボウルを彫ることに費やしていたことを思い出します。(これ、今でもだいだらぼっちで使っています!)今回のインタビューでも、聞かずともどんどん話してくれるその姿、その内容から、自分で切り拓いてきた人生を、思う存分に楽しんでいることが伝わってきました。やりたいことを成し遂げるために必要な努力は惜しまないし、むしろ楽しんじゃう。そんななおみちゃんの運営するアパートメントにたくさんの人が訪れて、いつかみけも伺える日が来ることを楽しみにしています。なおみちゃんもまた泰阜に帰ってきてね!いつでもお待ちしています!