あきらめの悪い男になろう ~故郷が教えてくれたもの~

今回は、少々私的な話をしたい。

今日9月5日は、12年前に他界した親父の命日だ。
私の親父の生まれ故郷は福井県小浜市。
若狭湾に面した小さな港街である。
私自身は古い団地と小さな借家住まいの、福井市で生まれ育った。
しかし実家のある小浜市には特別の想いがある。

皆さんご存知かわらかないが、小浜市を含む福井県若狭地方は世界一の原発集中立地地帯だ(14基)。
私の実家(親父の生家)も、原発10キロメートル圏内に位置している(大飯原発&高浜原発)。
小さな港街は、もし地震による津波がきたらひとたまりもないだろう。
そして、放射能が降り注ぐことも間違いない。
それが、原発立地の現実だ。

小浜の美しい海。あの半島に原発がある

私の親父は小さな集落の小さな農家が生んだ政治家だった。
国政に挑戦すること11回。
6勝5敗でかろうじて勝ち越し。
敗けても敗けても敗けても敗けても、誰からも相手にされなくとも挑戦を続ける貧しい青年政治家のその姿に、福井の大地に生きる大衆はいつしか心から応援を始めたと聞いている。
小さな田舎からよりよい社会づくりに人生を懸けた親父。
そしてその親父を支え続けた名もなき大衆の未来に懸ける想い。
私の身体には確かに彼らの魂が流れている。
私は、小浜の風土と人々が生みだした親父から「あきらめない心」を学んだ。

これが親父が眠る小さな集落

親父に連れられてよく遊びにきた

さて、私が育った福井市は災害多き街だ。
つい昨日も福井で震度5弱の地震があった。
戦災の焼け野原から復興途中の2年後に福井地震が起こり(死者約3,900人)、街は壊滅状態だったという。
ちなみに福井地震により「震度7」が設置され、その「震度7」が初めて適用されたのが阪神大震災。
戦災と震災、二つの災害から立ち直り、福井は「不死鳥の街」とも言われたものだ。
最近でも、三国町沖に重油タンカーが座礁して日本海が真っ黒い重油にまみれたり、集中豪雨や記憶に新しい「平成30年豪雪」が重なる。

いまだに福井市の積雪最大深(213センチ)は、全国の県庁所在地で一番だと聞く。
私が小5のときの「56豪雪(昭和56年豪雪)」も、福井平野に198センチもの積雪があり、たいへんな災害だった。
災害のたび、強くよみがえってきた街の風土もまた、私に「あきらめない心」を強烈なまでに教えてくれた。

この「心」が、泰阜村ではさらに大きく増幅される。
きびしい自然環境を生き抜いてきた人びととその風土が発揮する不屈の精神は、私が福井で培った「あきらめない心」をさらに大きく育ててくれた。

さきほど21時56分。
親父が永眠した時刻だ。

コロナもあり福井に墓参りに行けない。
信州泰阜村から福井の方に向かって一人で手を合わせた。
ちびちびと酒を飲みながら、酒豪だった親父と会話する。
亡くなってからしばらくは、墓前に呆然と立ち尽くし絶句していたものだ。
しかし、年を経るごとにそのような感情はなくなり、むしろ親父との会話を楽しむようになった。
「3人目の子どもが今年受験や。政治やコロナに翻弄されてるわ・・・」
「今年はコロナで泰阜村に来て最大の危機やわ・・・」と。

世を去る前の親父と会話することはなくなり、その後の親父と12年も会話を続けることができるのは、親父と私との間に新しい関係ができあがってきているのだと想う。
それは決して親父の生前を消し去るということではなく。

「あきらめてる場合じゃないやろ!」
しばし飲んだ後、親父から怒鳴られた(笑)気がした。
そうだ、俺があきらめてどうする。
小浜と福井の風土が私に叩き込んでくれた「あきらめない心」を、私は東日本大震災や熊本地震などの被災地に届けてきたではないか。
オンライン授業を余儀なくされ、学びづらさを抱える学生諸君に、「あきらめるな」と声をかけ続けてきたではないか。
泰阜村に集うこどもたちに、自然を舞台にした暮らしを通して、希望を語り続けてきたではないか。

どんなに過酷な状況に陥っても、周囲と協調して自ら責任ある行動をとる。
それは今、私に求められる資質、姿勢だ。
確かに今年はコロナ禍で泰阜村での教育事業が壊滅的だ。
でも、高く翔ばなくてもいい、速く翔ばなくてもいい。
落ちそうで落ちなければそれでいい。
低く遅くても、それでも前向きに低空飛行を続けよう。
必ず再起する。
あきらめの悪い男になろう。

すみません。今回は、ほとんど私の個人的な想いでした。

代表 辻だいち