私のこどもたちへ ~3.11 きみたちにこの唄を贈る~

私は26年前、泰阜村に移住した。
当時まだ22歳。
右も左もわからない若造である。
それまで札幌という街で大学生だった。

出身は福井県。
高校から大学のときに、北陸から北海道へ。
何が自分を北に向かわせたのだろうか。

北陸と北海道で、私は、あふれるほどの自然の恵みと、すばらしいひとびとに出会う。
体育会の運動部に所属して「あきらめない気持ち」を鍛えられた。
人と向き合うことを学問とする学部で「人間らしさとは何か」を学んだ(授業は全く出てなかったが!)。
北海道の山々や田舎を訪ね歩きながら「自然と人間の共生」の重要さを心に刻みこんできた。

いつしか、自分が学び取ったことを、未来を生きるこどもたちに、自分のすべてを懸けて伝えようと思うようになる。
そして、体育の教員となることを目指すことになった。

しかし、教室の中だけが教育の場だろうか、と疑問に思い、まずは教室の外の学びの場を経験したいと強く望んだ。
その時に出会ったのが、泰阜村だった。

26年前に、暮らしの学校「だいだらぼっち」のこどもたちと生活し始めたが、その当時からよくギター片手にこどもたちと歌っていた。
それまでは、どちらかというとニューミュージック系の曲ばかり弾いていたが、泰阜に来て衝撃的な唄との出逢いがあった。

私の先輩であり当時代表の村上忠明さん(キャンプネームはむさし)がよくこどもたちに弾いたり、何気なく1人で弾いたりしていた曲に惹きつけられ、以来「これだ!」と自分でも弾くようになる。

当時の信州こども山賊キャンプに来ていたこどもたちに向かって、キャンプ最終日に必ずこの唄を歌い、その想いを伝えてきた。
当時、暮らしていた「だいだらぼっち」のこどもたちも耳にタコができるほど聞いたことだろう。
そして、薪ストーブを囲んでいつもこどもたちといっしょに歌っていた。
私は自分の息子の子守唄としても歌ってきた。

その唄を紹介したい。


生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を
あなたに残しておいて やれるだろうか父さんは
目を閉じてごらんなさい 山が見えるでしょう
近づいてごらんなさい こぶしの花があるでしょう

生きている魚たちが 生きて泳ぎまわる川を
あなたに残しておいて やれるだろうか父さんは
目を閉じてごらんなさい 野原が見えるでしょう
近づいてごらんなさい りんどうの花があるでしょう

生きている君たちが 生きて走りまわる土を
あなたに残しておいて やれるだろうか父さんは
目を閉じてごらんなさい 山が見えるでしょう
近づいてごらんなさい こぶしの花があるでしょう ♪

曲名は「私のこどもたちへ」という。

このかけがえのない自然を、次の世代まで残せるのだろうか。
いや、残すのがわれわれ大人の責任で、その気持ちや自然の大事さをこどもたちに伝えたいと一所懸命歌ってきた。

今日、3月11日、東日本大震災から8年。

東北のこどもたち、そして熊本のこどもたちを、泰阜村で開催される信州こども山賊キャンプや暮らしの学校「だいだらぼっち」に招待し続けてきた。

私は、その泰阜村に住む大人として、この唄をどうしても「きみたち」に贈りたい。

泰阜村に来て、震災であれだけ猛威をふるった自然が、本当はとてもすばらしものだということを、その小さな身体に刻み込んでいってもらえただろうか。
泰阜村に来て、これからどんなに過酷なことに直面しても、生き抜くための「支え合いの気持ち」を、その小さな心に刻み込んでいってもらえただろうか。

「きみたち」が過ごした泰阜村の土には、このきびしい山岳環境のなかで支えあいながら生き抜いてきた泰阜村のひとびとの、自然と共存する壮絶な歴史と日々の暮らしの営みが流れている。
その歴史と営みを受け取った「きみたち」は、きっと強くなれる。
そう強く信じている。

その「信じる想い」を載せた唄。

この曲の作詞者は岐阜県中津川の方で、唄はマスメディアなどではなく手渡し口うつしで伝わっていくものと常々言い続ける方だった。
ずっとお会いしたいと思っていて、11年前に一度泰阜村でライブをやっていただいた。
私も やはり手渡し口うつしで、自分がぼちぼちギターを弾いて、唄っていきたいと思う。
作詞者は「笠木透」という人で、残念ながら4年前に他界した。

▼暮らしの学校「だいだらぼっち」のこどもたち

33年目の暮らしの学校「だいだらぼっち」が終わる。
1年間この村で過ごしてきた「きみたち」もまた、強く生きてくれる。
そう強く信じて、今日もまたギターで歌おう。

東日本大震災8年の日。
被災地のこども、そして全国のこどもにこの唄を贈る。

代表 辻だいち