「自然と人間の共生」オンライン授業だからこそ

立教大学で春学期(前期)の授業が始まった。
「自然と人間の共生」という授業だ。
この授業を受け持つようになってから9年の月日が流れた。
東日本大震災が発生した時にこの授業を受け持ち始めたのだから、ということは震災から9年ということになる。
自然と人間との関係がどうあるべきか?
そんなことを「考える」授業が、震災と同時に始まったとは、運命かもしれない。

大学からお願いされた時は、正直迷ったのも事実。
なにせ交通へき地の泰阜村は、東京往復に10時間もかかる。
1コマ1時間30分ほどのために、本当に10時間もかけて毎週通うのか?
悩む自分の背中を押してくれたのは、信州泰阜村の教育力だった。
自然と向きあって生き抜いてきた村のびとびとの暮らし。
その暮らしにこそ教育力がある、と信じて27年間、教育活動を続けてきた。
この教育力を、若い学生たちにも伝えたい。
その想いが「よし、やるか!」と想わせたのだろう。

そして今年。
コロナウィルス感染症のため、ご多分に漏れずこの授業も完全オンライン化された。
ウィルスもまた自然。
ウィルスとの共存を前向きにとらえる局面に入りつつある今、10年目を迎える「自然と人間の共生」の授業を今年もまた受け持つことができるのは、これまた運命なのかもしれない。

ただ、オンライン授業は、いつもと勝手が違う。
学生に直接語りかけることができないのは、拍子抜けだ。
オンラインなんかでこの信州泰阜村の教育力を伝えることはまず不可能だろう。
これは苦しい授業運営になる。
と、想っていた。
いや、「できない理由」を必死で考えていた、ということかもしれない。

いざオンライン授業をやってみる。
ツールはなんとかそろえた。
この泰阜村のネット環境は、絶望的に弱い。
それでもなんとかなる。
いや、それどころか、学生にリアルな泰阜村の自然や暮らしの営みを、そのまま見せることができる。
時折、ネットの接続が切れる。
少し待つと、200人の学生の顔が復帰してくる。
苦笑いだ。
しかし、これもまた山村の実情だ。
大学の教室でそれをいくら語ったところでなかなか伝わらないことが、一瞬で伝わる。

せっかく山村から生配信なんだから、外に出ないほうがもったいない。
信州の山々を見せる。
初夏の風のそよぎや鳥の声が、まさにLIVEで学生に届く。
その説得力は、私の拙い言葉をはるかに凌駕する。
そして、私の講義を以前聞いた学生からはこんな反応もある。
「都市部の教室で聞いた時より、はるかに迫力がありました」
そうなのかもしれない。
私の本拠地なのだから当たり前か。
この9年間は、私の本拠地を離れ、往復10時間もかけてアウェイで話をしていたということになる。
今、本拠地の土の上で、太陽の光を浴びて、谷渡る風を受けながら「自然と人間の共生」の話をしている。
学生と話ができないのは残念だが、それを補ってあまりあるほどの圧倒的な自然のリアリティを学生に届けることができている。

これまではなかなか東京まで連れていけなかった、この村に息づくひとびと。
今度、村最奥の限界集落に住む古老に、オンライン授業のゲストに登壇してもらう。
東京まで6時間もかかる限界集落から、なんとLIVEで授業をする。
今までは、そんなこと想いもつかなかったし、想ったとしてもやろうともしなかっただろう。
泰阜村長にもゲストで登壇してもらう予定だ。
彼らは、本拠地の土に立ち、どんな話をしてくれるのだろうか。
学生よりワクワクしているのは、私かもしれない。

自然と向きあって生き抜いてきた村のびとびとの暮らし。
その暮らしの教育力を、若い学生たちに伝えたい。
きっとこの授業を受けてくれた学生たちに、直に会うことはないだろう。
それでも私は、伝えることをあきらめない。
オンラインだからといって、できない理由を探している場合じゃない。
渾身の想いを込めて、毎週PCの前に立とう。

代表 辻だいち