代表しんのエデュケーションコラム

Column of the Representative Director Shin

HOME | 代表齋藤新のコラム | 代表しんのエデュケーションコラム2025

NPOグリーンウッド代表理事(齋藤新)

 
事務局長・しんのエデュケーションコラム一覧

2025年12月
暗闇から

 
 冬の明け方、電車通学の長女を送る道はまだ真っ暗です。さらに霧が出ようものなら、通い慣れたはずの道なのにどこを走っているのかわからなくなって不安になったり、曲がる道を間違いそうになったりすることがあります。そんなとき、ふと「これが狐に化かされるという感覚なのかもしれない」と思うことがあります。令和の時代になってもまだまだ暗い山村は、時に人を惑わします。
 しかし哲学者・内山節さんによれば、この“狐に化かされる”という話は1965年頃から聞かれなくなったそうです。自然との距離やコミュニティの在り方、人間の世界観が変わった結果だといいます。街灯や照明が暮らしの中の闇を減らし、不安感や恐怖感が少なくなったことや、実際に道迷いや見間違いが減ったこともあるのではと思います。妖怪の話が消えたのも、怪異や不可思議なことが科学的に解明されたり、錯覚として片付けるようになったからかもしれません。きっとかつては見えないもの、理解できないものを物語として語り合い、コミュニティで共有することで、人は世界を理解してきたのだと思います。

 
 現代では暗闇だけでなく、「わからないこと」そのものが減ったように感じます。テレビや新聞に加え、インターネットを見れば世界中の情報が手に入り、多くの人が「何でもわかる」と思い込むようになりました。スマホでいつでも連絡が取れ、GPSで家族の居場所も把握できます。さらにAIの登場で、「正解」らしいものが簡単に手に入るようになりました。世界中に影は無くなり、ありとあらゆるところが明りの下で明白になってきています。
 しかし「わかる」ことは安心につながる一方で、すべてが明らかになることが本当に良いことなのでしょうか。

 
 グリーンウッドが行っている活動は全て、参加者が集まってから何をするかを決めます。どうなるかわからない不安定さにこそ、こどもたちは自分の力でより良い答えを出そうと奮闘し、お互いを理解しようとスキマを埋めます。わからないことを自分で考えたり、曖昧なものを自分の感覚で理解したり過程は、自然や社会、他者を理解するために必要な力を育てるのです。

 
 2025年も応援いただき、ありがとうございました。次の時代わたしたちがすべきことは、この山村で息づいた人と自然が混じりあう暮らしで得た、生きるために必要な本質を社会に問い掛けていくことだと考えています。答えが簡単に出ない、わからないことだらけの社会を当たり前のことと捉え、自分の力で世界を歩く人をこれからも育てて参ります。新しい1年も応援よろしくお願いいたします。
 
 
 
 
 

2025年11月
葬儀の形と地域のつながり 

 
 ここ最近、村でお世話になった方たちの訃報が続いています。地域を支え続けてきた方たちであり、私たちも有形無形の応援をたくさんいただきました。高齢の方が多い山村なので当然のことではありますが、もう会えないのかと寂しい気持ちと共に、これまで支えてくれたことへの感謝の気持ちを伝えられないことに忸怩たる思いをしています。

 
 泰阜村ではかつて土葬をしていたそうです。前代表の辻が、「泰阜村に来たばかりの頃にお墓の穴掘りをして夜の墓守もした」と話していました。それが32年前なので、そんなに遠い昔ではないことに驚きます。当時は葬儀となれば、お組合(地域の班)が集まり、そういった準備から、夜の弔問客用の食事として、てんぷらを揚げたり、おでんを煮たりと地域総出でお手伝いしたとのことでした。
 私が来た20年前には葬儀会社が主導する形が一般的となっていました。とはいえ、どなたかが亡くなればお組合でその方の家に集まり、受付係やお茶係、駐車場の整理係など葬儀に必要な役割を振り分ける段取りを取っていました。
 しかしコロナ禍で一気に変わりました。人が集まることができなくなったため、家族のみで行われる葬儀に変わり、お組合の方が手伝う形はほぼなくなりました。コロナが明けた現在もその傾向が続いています。時代なのでしょうか。多くの人の手を煩わせない方向に進んでしまうのだと思います。
 確かに墓守や料理などの負担は大きいものです。葬儀は当然急なこと。明日お願いしますと言われたら、正直困ってしまいます。しかしその関わりが、地域の文化をつなぎ、人と人の関わりを生み、お互いの人となりを知り、さらに地域の担い手を育てる機会になっていたはずです。
 効率性や合理性の観点から無くしても良いものもたくさんあると思います。しかしそこで生まれていた、人と人、地域と人、時間や空間を超えたつながりは代替できません。今後ますます簡易化する社会において、意識的に残すものを考える必要があるのではないでしょうか。

 
 グリーンウッドは全スタッフが村外からの移住者です。仕事場としての村である以上に、私たちは地域の担い手の一人です。お世話になった方たちにいただいたものをお返しするのは、泰阜村の豊かな暮らしを当事者として続けていくことに他ないと思います。一方でこの「豊かさ」とは何かを考え続けなければ、あっという間になくなってしまうものでもあります。
 
 
 
 

2025年10月
市民を育てる力――若者の行動と社会の変革

 
 全国のNPOが集まる合宿に参加しました。総勢200名。その多くは20代から40代の方のようです。その前に参加したインパクトスタートアップのフォーラムでも感じましたが、社会課題に向き合い、それを生業にしようという若者が確実に増えているのを感じます。
 合宿では阪神淡路大震災でボランティアのとりまとめをされた方のお話しも伺いました。「社会活動を仕事にするなんて考えられない時代だった」と、親からも諦められたと笑いながらお話しされていました。30年前はお金を稼ぎ、日本の経済活動を活発にすることが社会貢献だった時代です。私も今ではNPOで代表をしていますが、当時は社会貢献を仕事にしようなどど考えたこともありませんでした。
 震災はボランティア元年と言われ、それを機に社会活動が活発化され、NPO法成立にもつながっています。その一歩がここまで大きなうねりに繋がっていることにあらためて感動を覚えました。

 
 一筋縄ではいかない今の社会を見るにつけ、若者たちの行動力に対する安心感と感動と共に、一方でNPOなどが提供するサービスへの依存が進む二極化する世界への不安も感じます。
 日本の寄付文化も進み、社会活動が加速度的に進んでいます。しかし同じ社会課題、対象に対して複数の団体の活動が重なり、協働に進まず、哲学や手法の違いからポジション取りになっているという話も聞きました。
 社会課題に向き合う人が増えていくというプラスの動きは、一方で当事者をお客様(サービスの消費者)にしてしまっているのではないか。当事者を主体(市民)に育てなければいけないという指摘もありました。

 
 私たちグリーンウッドのビジョンは「みんなが”できる”を持ち寄る社会」です。誰もができることはある。それを自分の関わる社会に持ち寄ることで、なんとかみんなで暮らそうというもの。その行動自体が社会全体をより良くするという考え方です。また誰かに頼るだけで自分の可能性(特別なことではなく、自分にできることの発見)を感じられないのは、それもまた不幸なことです。「できる」は、言い換えれば社会の居場所とも言えます。
 支える人と、支えられる人、どちらかになるのではなく、場面によってはどちらにもなりうるのが本来の社会です。市民を育てるという考え方は、NPOに限らず消費社会においても重要な問いだと感じます。

 
 
 
 

2025年9月
絶滅危惧種が泰阜村に⁉人と自然の共生の難しさ

 
 夏のある日、スタッフのくるが「見慣れない鳥を見た」と施設のそばで撮った動画を見せてくれました。確かに見たこともない鳥が映っています。職場でも「これは何だ」と盛り上がりました。鳥に詳しい知人に尋ねましたが、はっきりした答えは得られず。ネット検索で調べるとある鳥がそっくりな気がします。しかもその鳥は絶滅危惧種で世界に1000羽ほどしかいないとのこと。これは大発見ではないかと職場でちょっとした騒ぎになりました。
 その直後、施設の建物に鳥が入り込んで出られなくなるという出来事がありました。見に行くと、なんと例の鳥!無事に外に逃がしましたが、鮮明な写真もしっかり撮ることができました。改めて調べても、やはりその鳥にしか見えません。
 ちょうど我が家の鳥好きの末っ子の夏休みの自由研究のテーマが「泰阜村の鳥」でした。急遽、このナゾの鳥をテーマに変更しました。
 息子が隣の飯田市にある動物園に電話して尋ねましたが、写真を見せると「飼育している以外の鳥については詳しくない」とのこと。落胆していると「知り合いの方で、昔飯田の博物館で働いていて博士みたいな方がいる。写真を送って聞いてあげる」と繋いでいただきました。
 答えを待つ間、図書館に行き、関連の資料を集めていると動物園から紹介された方から電話が。「○○に間違いない ※絶滅危惧種のためあまり生息地を公表してはいけないそうなので伏字にしております」ということでした。すっきりした気持ちと、絶滅危惧種が泰阜村にいるという興奮に、息子と二人で大喜び。その後、息子は電話でいろいろと質問をして無事に自由研究を提出しています。

 
 ただその電話の中で気になる話を聞きました。「最近はこの南信州で目撃した話をよく聞く。数が増えているのかもしれない」とのことでした。
 どうやら宅地開発などで○○が住みやすい山林がなくなったことで数が減ったようなのですが、一方でここ数年の山村での人口減少により、放置林、放棄農地が増えたことで、今度は○○が住みやすい環境が増えているようなのです。

 
 絶滅危惧種が泰阜村で見られるということは自然豊かな証拠。しかしその裏には人が減り、山に人が入らなくなっている結果でもあります。
 全国各地でクマの出没も増えて被害も出ています。様々な要因はありますが、ひとつに人が暮らしのために山に入っていた時代から生活様式も変わり、クマと暮らしの境界線がなくなってしまったために起きている出来事です。最近はクマが目撃されたことでキャンプ場や登山道の閉鎖というニュースも聞こえてきます。自然を管理し、人の暮らしに都合の良いように変えてきたしっぺ返しのように感じます。
 絶滅危惧種が増えて良かったねという牧歌的な感想ではいられない、山村はこれから深刻な影響が出てくるのではないかと心配になってきます。ある意味、自然界からの反撃なのではないか。この○○との出会いで色々と考えさせられました。

 
※鳥の名前を伏字にしてしまったため説得力が大分薄まってしまいました。ご容赦いただき、ぜひ想像で補っていただければ。
 
 
 
 

2025年8月
山賊キャンプを終えて

 
 延べ760名のこどもと230名の青年ボランティアを受け入れた山賊キャンプが、8月24日に終了しました。昨年・一昨年は台風の影響で日程変更を余儀なくされましたが、今年は酷暑ながらも天候に恵まれた夏でした

 
 終了後のアンケートには、こどもたちの変化を感じる声が多く寄せられています。「ひと言目にご飯作るのお手伝いするねと言ってくれました。」「帰ってきて自信の大量の洗濯物を手伝ってくれ、さらに夕飯を作ると言って、キャンプで得たことを披露してくれた」
 料理を作ってくれた。手伝いをしてくれた。という声が今年は特に多く感じます。全てのこどもがそのようになるわけではありませんが、それでもキャンプの得た自信を形にして家族に見せたい表れなのだと思います。「食器を洗い、片付けるのにも時間がかかり、料理って毎日作るの大変なんだなと感謝されました」といいう言葉の通り、毎日親がしてくれる家事を体験したことで、その苦労を理解している様子も伺えます。

 
 火を起こし、包丁を使い、仲間と協力して食事を作る営みは、共同生活の基盤となります。「また同じ族のメンバーでキャンプがしたいと言っている」「なんでみんなと別れなきゃいけないんだと大泣き。とてつもない経験をしたのだと感じた」
 暮らし=消費となった現代において、他者との関わりは面倒なものとなっています。一方山賊キャンプでは、自分も含め、この仲間がいなければ暮らせなかったという実感が多様性の価値を刻み込んでいます。
 また「自分が思っているより10倍以上優しく人に伝えないとみんな気持ちよく協力して同じゴールのために動くってならない」「みんなが協力してる中、何人かは自分勝手に動いていてあれはダメだなとしみじみ思った様子。仲間の中での自分の役割についてすごく意識したよう」と、人の輪の中でこそ得たものもあったようです。
 
 「時計を気にしない生活。なんと贅沢なんだと思いました」「時計がない生活はすごく自由だ」という言葉も。時計とは時間であり、時間とは評価です。つまり「何時までに終えなければいけない」が基準となり、他に大事なものがスポイルされてしまいます。例えば包丁を使うにせよ、時間が基準となれば、小さな子や不器用な子に任せられなくなり、年長者や上手な子にばかり任せられることになります。時間に管理されない自由さと共に、チャレンジが平等に与えられている安心感がこどもをさらにのびやかにさせています。

 
 最後に「キャンプ中の報告がなかったことで、帰宅後にこどもの話にいつも以上に耳や目を傾けた」という声がありました。キャンプの様子をあまり詳細に伝えない山賊キャンプが、むしろ親子のコミュニケーションを深めたのであればこれ以上うれしいことはありません。

 
 山賊キャンプは40年前から基本のスタイルを変えずに続けています。しかし年々リスクが増え、こどもの体験活動の実施も簡単ではなくなっています。それでも、こども自身が親元を離れ、身一つで体験する場の必要性をアンケートが物語っています。もちろんアンケートでは厳しいご意見もいただいています。時代に合わせ変えなくてはいけないことも多々ありますが、一方で変えてはいけないことも改めて考える機会にもなっています。

 さて山賊キャンプはグリーンウッドのスタッフだけではなく、泰阜村の農家の方、村民の皆様、青年ボランティア、だいだらぼっちの保護者やOBOG、そして旅行会社、バス運行会社など、様々な方たちの有形無形の協力によって成り立っています。こどもたちが存分に体験できたのは、その裏に支えがあってこそです。
 最後になりますが、応援いただいた全ての方に御礼を申し上げます。皆様のおかげで760名のこどもに学びと成長の機会を提供できました。本当にありがとうございました。
 
 
 

2025年7月
5つのバリュー 「こどももおとなも安心して自分を表現できる場作り」

 
 昨年度、私たちグリーンウッドは、これまでの歩みを振り返りながら、あらためてVISIONとMISSIONを見直し、そこに新たにVALUE(大切にしている価値観)を加えました。今回はそのひとつ、「こどももおとなも安心して自分を表現できる場作り」についてお話しします。
 たとえば、だいだらぼっちではギターを弾く大人がいることもあって、こどもたちの中にもギターを始める子がいます。イベントで披露することもありますが、最初はお世辞にも上手とは言えないことも。でも、本人たちはとても楽しそうで、まるで一人前のミュージシャンのように堂々と演奏しています。そして何度も披露するうちに、驚くほど上達していくのです。これは、うまい・下手に関係なく「表現する場」があるからこそ育まれる力だと感じています。
 毎年行うお祭りでは、こどもたちが自分たちで劇をつくり、地域の方や保護者の前で演じます。思春期まっただ中の小中学生が、恥ずかしがるどころか、役になりきって堂々と演じます。毎日の話し合いでも自分の意見を堂々と話し、違う意見に対してもぶつけ合って解決していきます。 表現は何もポジティブなものばかりではありません。拗ねたり、怒ったり、泣いたり、時には本音でぶつかり合うことも、「自分を表現する」姿です。
 
 「安心して自分を表現できる」とは、失敗しても責められず、話を聞いてくれる人がそばにいること。見守ってくれる存在がいること。そして何より、「誰もがみな違う」という当たり前の価値観のもとで人と関わることです。誰かだけが特別扱いされるのではなく、関わるすべての人が「お互い」にその関係であることが大切です。

 
 今の社会では、周囲の目を気にして行動を変えたり、声の大きな人の意見に流されたりすることが当たり前になりがちです。「みんなと同じ」が安心につながってしまっては、多様なもの、新しい意見は生まれません。なによりその人自身の可能性を閉ざすことにもつながります。「こどももおとなも安心して自分を表現できる場作り」は、参加者にとって「誰もがみんな違う人」という当たり前に気づく場にもなっています。
 
 
 
 

2025年6月
若者を変化させるのは「消費する暮らし」から「生み出す暮らし」

 
 先日、NPOサンカクシャ(若者支援団体)に関わる若者を受け入れてキャンプを実施しました。グリーンウッドのキャンプは参加者が食事作りや風呂焚きなど暮らしに関わることを全て行い、何をするのかも参加者が決めます。1泊2日と短いにも関わらず、川遊びに焚火、薪割、石窯ピザと濃密な時間を過ごしました。
 昨年度も参加した若者が今回も参加していました。まず驚いたのは顔つきも変わり、声も張りがあって、積極的に楽しんでいたことです。最後の振り返りでは、「実は行きの車の中で泣いてしまった。去年の思い出がすごく心に残っていて、囲炉裏を囲んで話したなとか川で開放的になったとかそういった積み重ねがきっかけでこの1年成長したんだと思いだした」と語っていました。
 初参加の若者も、「ほとんどうまくいかないことばかりだったけど、やってみたらできるじゃん、やってみたら楽しいじゃん、そんな体験ができたのがよかったです。うまくいかないけどやってみるということを戻ってからも日常のいろんな場面で活かしていけたらと思います」と話す通り、「やってみたらできること」はたくさんあり、その「できた」は自信と次のチャレンジの足掛かりになります。
「料理は好きだけど、人に食べてもらったことがなかった。おいしいと言ってもらえてうれしかった」実体のある体験の積み重ねが「喜びや幸せ」という価値観を育てていきます。
 たった2日間、特別なことをするわけではありません。あるとするならば、「消費の暮らし」から「生み出す暮らし」への転換です。生み出す暮らしは過程が増えます。それは自分自身、他者との関係、社会とのつながり、素朴な驚きなど様々な物に出会えます。自分で発見したことは学びにつながり、自信と自己肯定につながります。
 消費だけの暮らしから「生み出す暮らし」への転換を意識する。それだけでこどもや若者は変化するのではないかという希望を感じる一方で、東京出張で見る都市部のさらに消費に突き進む様子を見ると、私たちの暮らしや価値観との大きな溝を見せつけられます。この溝こそ社会課題の根本のような気がしています。
 
 
 
 

2025年5月
働き方が変わる時代の仕事のやりがいとは?

 
 グリーンウッドでは毎年事業計画を各チームで立てます。事業が目指すゴールは何か?そのために今年度は何に力を入れるのか?具体的アクションや事業、参加者などの目標値を数値化して全体で発表、共有します。
 毎年思うのは本当に頼りがいのあるスタッフだなということ。忙しいのにここまでのことをやるのかとちょっと引くくらいの計画を立ててきます。もちろんすべてを実行できないこともありますが、それでも計画がなければ前にも進みません。毎年のこのルーティンで必ず進化と深化をしていきます。
 ただ全体でみるとやはりかなり忙しい。チームそれぞれが持っている業務だけではなく、全体で担うものもあるのでどのように調整するのかが難しいところです。特にスタッフそれぞれは自分の担当業務に対する思い入れもあり、簡単に「この事業は縮小しよう」というわけにもいかないのが悩みどころでもあります。
 それぞれのスタッフが事業を任されたときに、今と同じモチベーションであるかというとそうでもないことも多々あるようで、「この事業の意味は何?」「他の仕事もあるのに担当増えるのは大変」などいろいろ思い悩むこともあるとのこと。1年なり2年なり担当することで、「もっとやってみた。もっとできることがある!」とやる気が高まっていくのだと思います。
 その理由は、自分次第で事業の成果が変わることにあります。自分が担当することによって目の前のこどもが変化したり、関わる人が増えたり、新たな出会いや仕事につながったりという手応えを感じてきます。さらに意義や意味を見い出し、誰でも良い仕事ではない自分の役割になっていくのだと思います。
 働き方改革が進み、私たちも含め多くの企業は残業もなく定時で帰れるように取り組んでいます。一方でだいだらぼっちのOBやOGたちからは、「あまり仕事が振られず、早く帰るよう急かされたりするので、やりがいがないから転職した」という話も聞きます。AIが発達し、DX化が進み効率化する中で、誰でもできる仕事が増えています。しかしそれが全ての人の幸福にはつながらないのではないかと感じます。「誰でもできる仕事」は代替できます。「わたしだからできた」という実感は、自分の存在証明でもあるのです。
 お金で暮らしを成り立たせる消費社会は手応えや実感をどんどん奪っています。「静かなる退職」といった働き方を選ぶ人もいます。一方で、自分次第で変化する「手応えを感じる仕事」が求められてくるのではないかとも感じます。
 
 
 
 

2025年4月
感情を言葉にできないこどもたち

 
 ニュースや新聞でこどもたちが感情を言葉にできず、暴れたり、物を壊したりすることが増えているという話題を目にします。以前は「キレるこども」と言われており、今に始まったことではありません。
 自分の感情を言葉にするのは大人でも難しいことです。まして小学生に感情を言葉にさせることに無理があります。ここで言いたいのは溢れた感情が暴力的な発散に向かってしまうことの問題なのだと思います。
 原因は様々あると思いますが、ひとつは心と身体を発散する場がないままに大きくなってしまったからではないでしょうか。小さなころから「あらねばならない」価値観の押し付けが強くなっています。「隣近所に迷惑になるから家の中でも騒がない」「電車では静かに」「公園でも周りに迷惑をかけない」…。自由に遊べるはずの公園もボール遊びが禁止だったり、危険だと思われる遊具が取り払われたり。こどもを取り巻く事件が増えることで、こどもだけで外にいる時間はさらに減っていっています。将来の不安からたくさんの習い事をして、こどもの内にできることを増やす努力を強いられているようにも感じます。

 
 私の小さな頃は今以上に学校は厳しく先生の体罰も当たり前にあり、価値観の押し付けだけで言えば昔の方がよっぽど大変です。もちろん先生に殴られた記憶は思い出すのもつらいですが、自由がなかったかというとそうでもありません。
 朝早く学校に行って校庭で自由に遊んだり、休み時間も競うように場所取りをして身体を使って遊んでいました。土曜日や放課後に自主的に残って係の仕事をしたり、学級新聞づくりをしたりという思い出もあります。学校から帰っても外で遊び、時には夜の公園に集まって鉄棒の練習をしたこともありました。学校だけ、家だけが自分の世界の全てではなかったし、こどもの判断に緩やかに任せられていることが多々ありました。今のようなSNSもなかったので社会での「当たり前や普通」に親もこどもも押しつぶされることが少なかったのではないでしょうか。
 現代社会は様々な環境の要因から、こどもの自由は奪われています。本来こどもは思う存分身体を使って遊ぶ中で、快や不快、好きや嫌いといった自分の心に自分自身で気づく緩やかな時間が必要なのです。
 小学生の低学年などは言葉にすることがまだまだできません。そもそもこどもが理由のない衝動的な行動をとるのは現在に限らず、昔から当たり前のことです。そこに「なぜ?」と理由ばかりを聞かれる戸惑いもあるでしょう。大人と同様の会話でのコミュニケーションばかりを大切にするのはとても危険なことだと思います。まずは感情を言葉にできるようにすることを目的とするのではなく、感情を発散させ、自分の心と出会う体験をたくさんできる場を作りだすことの方が大切なのではないでしょうか。
 
 
 
 

[%new:New%] [%article_date_notime_dot%]

[%title%]