代表しんのエデュケーションコラム

Column of the Representative Director Shin

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NPOグリーンウッド代表理事(齋藤新)

 
事務局長・しんのエデュケーションコラム一覧

2025年8月
山賊キャンプを終えて

 
 延べ760名のこどもと230名の青年ボランティアを受け入れた山賊キャンプが、8月24日に終了しました。昨年・一昨年は台風の影響で日程変更を余儀なくされましたが、今年は酷暑ながらも天候に恵まれた夏でした

 
 終了後のアンケートには、こどもたちの変化を感じる声が多く寄せられています。「ひと言目にご飯作るのお手伝いするねと言ってくれました。」「帰ってきて自信の大量の洗濯物を手伝ってくれ、さらに夕飯を作ると言って、キャンプで得たことを披露してくれた」
 料理を作ってくれた。手伝いをしてくれた。という声が今年は特に多く感じます。全てのこどもがそのようになるわけではありませんが、それでもキャンプの得た自信を形にして家族に見せたい表れなのだと思います。「食器を洗い、片付けるのにも時間がかかり、料理って毎日作るの大変なんだなと感謝されました」といいう言葉の通り、毎日親がしてくれる家事を体験したことで、その苦労を理解している様子も伺えます。

 
 火を起こし、包丁を使い、仲間と協力して食事を作る営みは、共同生活の基盤となります。「また同じ族のメンバーでキャンプがしたいと言っている」「なんでみんなと別れなきゃいけないんだと大泣き。とてつもない経験をしたのだと感じた」
 暮らし=消費となった現代において、他者との関わりは面倒なものとなっています。一方山賊キャンプでは、自分も含め、この仲間がいなければ暮らせなかったという実感が多様性の価値を刻み込んでいます。
 また「自分が思っているより10倍以上優しく人に伝えないとみんな気持ちよく協力して同じゴールのために動くってならない」「みんなが協力してる中、何人かは自分勝手に動いていてあれはダメだなとしみじみ思った様子。仲間の中での自分の役割についてすごく意識したよう」と、人の輪の中でこそ得たものもあったようです。
 
 「時計を気にしない生活。なんと贅沢なんだと思いました」「時計がない生活はすごく自由だ」という言葉も。時計とは時間であり、時間とは評価です。つまり「何時までに終えなければいけない」が基準となり、他に大事なものがスポイルされてしまいます。例えば包丁を使うにせよ、時間が基準となれば、小さな子や不器用な子に任せられなくなり、年長者や上手な子にばかり任せられることになります。時間に管理されない自由さと共に、チャレンジが平等に与えられている安心感がこどもをさらにのびやかにさせています。

 
 最後に「キャンプ中の報告がなかったことで、帰宅後にこどもの話にいつも以上に耳や目を傾けた」という声がありました。キャンプの様子をあまり詳細に伝えない山賊キャンプが、むしろ親子のコミュニケーションを深めたのであればこれ以上うれしいことはありません。

 
 山賊キャンプは40年前から基本のスタイルを変えずに続けています。しかし年々リスクが増え、こどもの体験活動の実施も簡単ではなくなっています。それでも、こども自身が親元を離れ、身一つで体験する場の必要性をアンケートが物語っています。もちろんアンケートでは厳しいご意見もいただいています。時代に合わせ変えなくてはいけないことも多々ありますが、一方で変えてはいけないことも改めて考える機会にもなっています。

 さて山賊キャンプはグリーンウッドのスタッフだけではなく、泰阜村の農家の方、村民の皆様、青年ボランティア、だいだらぼっちの保護者やOBOG、そして旅行会社、バス運行会社など、様々な方たちの有形無形の協力によって成り立っています。こどもたちが存分に体験できたのは、その裏に支えがあってこそです。
 最後になりますが、応援いただいた全ての方に御礼を申し上げます。皆様のおかげで760名のこどもに学びと成長の機会を提供できました。本当にありがとうございました。
 
 
 

2025年7月
5つのバリュー 「こどももおとなも安心して自分を表現できる場作り」

 
 昨年度、私たちグリーンウッドは、これまでの歩みを振り返りながら、あらためてVISIONとMISSIONを見直し、そこに新たにVALUE(大切にしている価値観)を加えました。今回はそのひとつ、「こどももおとなも安心して自分を表現できる場作り」についてお話しします。
 たとえば、だいだらぼっちではギターを弾く大人がいることもあって、こどもたちの中にもギターを始める子がいます。イベントで披露することもありますが、最初はお世辞にも上手とは言えないことも。でも、本人たちはとても楽しそうで、まるで一人前のミュージシャンのように堂々と演奏しています。そして何度も披露するうちに、驚くほど上達していくのです。これは、うまい・下手に関係なく「表現する場」があるからこそ育まれる力だと感じています。
 毎年行うお祭りでは、こどもたちが自分たちで劇をつくり、地域の方や保護者の前で演じます。思春期まっただ中の小中学生が、恥ずかしがるどころか、役になりきって堂々と演じます。毎日の話し合いでも自分の意見を堂々と話し、違う意見に対してもぶつけ合って解決していきます。 表現は何もポジティブなものばかりではありません。拗ねたり、怒ったり、泣いたり、時には本音でぶつかり合うことも、「自分を表現する」姿です。
 
 「安心して自分を表現できる」とは、失敗しても責められず、話を聞いてくれる人がそばにいること。見守ってくれる存在がいること。そして何より、「誰もがみな違う」という当たり前の価値観のもとで人と関わることです。誰かだけが特別扱いされるのではなく、関わるすべての人が「お互い」にその関係であることが大切です。

 
 今の社会では、周囲の目を気にして行動を変えたり、声の大きな人の意見に流されたりすることが当たり前になりがちです。「みんなと同じ」が安心につながってしまっては、多様なもの、新しい意見は生まれません。なによりその人自身の可能性を閉ざすことにもつながります。「こどももおとなも安心して自分を表現できる場作り」は、参加者にとって「誰もがみんな違う人」という当たり前に気づく場にもなっています。
 
 
 
 

2025年6月
若者を変化させるのは「消費する暮らし」から「生み出す暮らし」

 
 先日、NPOサンカクシャ(若者支援団体)に関わる若者を受け入れてキャンプを実施しました。グリーンウッドのキャンプは参加者が食事作りや風呂焚きなど暮らしに関わることを全て行い、何をするのかも参加者が決めます。1泊2日と短いにも関わらず、川遊びに焚火、薪割、石窯ピザと濃密な時間を過ごしました。
 昨年度も参加した若者が今回も参加していました。まず驚いたのは顔つきも変わり、声も張りがあって、積極的に楽しんでいたことです。最後の振り返りでは、「実は行きの車の中で泣いてしまった。去年の思い出がすごく心に残っていて、囲炉裏を囲んで話したなとか川で開放的になったとかそういった積み重ねがきっかけでこの1年成長したんだと思いだした」と語っていました。
 初参加の若者も、「ほとんどうまくいかないことばかりだったけど、やってみたらできるじゃん、やってみたら楽しいじゃん、そんな体験ができたのがよかったです。うまくいかないけどやってみるということを戻ってからも日常のいろんな場面で活かしていけたらと思います」と話す通り、「やってみたらできること」はたくさんあり、その「できた」は自信と次のチャレンジの足掛かりになります。
「料理は好きだけど、人に食べてもらったことがなかった。おいしいと言ってもらえてうれしかった」実体のある体験の積み重ねが「喜びや幸せ」という価値観を育てていきます。
 たった2日間、特別なことをするわけではありません。あるとするならば、「消費の暮らし」から「生み出す暮らし」への転換です。生み出す暮らしは過程が増えます。それは自分自身、他者との関係、社会とのつながり、素朴な驚きなど様々な物に出会えます。自分で発見したことは学びにつながり、自信と自己肯定につながります。
 消費だけの暮らしから「生み出す暮らし」への転換を意識する。それだけでこどもや若者は変化するのではないかという希望を感じる一方で、東京出張で見る都市部のさらに消費に突き進む様子を見ると、私たちの暮らしや価値観との大きな溝を見せつけられます。この溝こそ社会課題の根本のような気がしています。
 
 
 
 

2025年5月
働き方が変わる時代の仕事のやりがいとは?

 
 グリーンウッドでは毎年事業計画を各チームで立てます。事業が目指すゴールは何か?そのために今年度は何に力を入れるのか?具体的アクションや事業、参加者などの目標値を数値化して全体で発表、共有します。
 毎年思うのは本当に頼りがいのあるスタッフだなということ。忙しいのにここまでのことをやるのかとちょっと引くくらいの計画を立ててきます。もちろんすべてを実行できないこともありますが、それでも計画がなければ前にも進みません。毎年のこのルーティンで必ず進化と深化をしていきます。
 ただ全体でみるとやはりかなり忙しい。チームそれぞれが持っている業務だけではなく、全体で担うものもあるのでどのように調整するのかが難しいところです。特にスタッフそれぞれは自分の担当業務に対する思い入れもあり、簡単に「この事業は縮小しよう」というわけにもいかないのが悩みどころでもあります。
 それぞれのスタッフが事業を任されたときに、今と同じモチベーションであるかというとそうでもないことも多々あるようで、「この事業の意味は何?」「他の仕事もあるのに担当増えるのは大変」などいろいろ思い悩むこともあるとのこと。1年なり2年なり担当することで、「もっとやってみた。もっとできることがある!」とやる気が高まっていくのだと思います。
 その理由は、自分次第で事業の成果が変わることにあります。自分が担当することによって目の前のこどもが変化したり、関わる人が増えたり、新たな出会いや仕事につながったりという手応えを感じてきます。さらに意義や意味を見い出し、誰でも良い仕事ではない自分の役割になっていくのだと思います。
 働き方改革が進み、私たちも含め多くの企業は残業もなく定時で帰れるように取り組んでいます。一方でだいだらぼっちのOBやOGたちからは、「あまり仕事が振られず、早く帰るよう急かされたりするので、やりがいがないから転職した」という話も聞きます。AIが発達し、DX化が進み効率化する中で、誰でもできる仕事が増えています。しかしそれが全ての人の幸福にはつながらないのではないかと感じます。「誰でもできる仕事」は代替できます。「わたしだからできた」という実感は、自分の存在証明でもあるのです。
 お金で暮らしを成り立たせる消費社会は手応えや実感をどんどん奪っています。「静かなる退職」といった働き方を選ぶ人もいます。一方で、自分次第で変化する「手応えを感じる仕事」が求められてくるのではないかとも感じます。
 
 
 
 

2025年4月
感情を言葉にできないこどもたち

 
 ニュースや新聞でこどもたちが感情を言葉にできず、暴れたり、物を壊したりすることが増えているという話題を目にします。以前は「キレるこども」と言われており、今に始まったことではありません。
 自分の感情を言葉にするのは大人でも難しいことです。まして小学生に感情を言葉にさせることに無理があります。ここで言いたいのは溢れた感情が暴力的な発散に向かってしまうことの問題なのだと思います。
 原因は様々あると思いますが、ひとつは心と身体を発散する場がないままに大きくなってしまったからではないでしょうか。小さなころから「あらねばならない」価値観の押し付けが強くなっています。「隣近所に迷惑になるから家の中でも騒がない」「電車では静かに」「公園でも周りに迷惑をかけない」…。自由に遊べるはずの公園もボール遊びが禁止だったり、危険だと思われる遊具が取り払われたり。こどもを取り巻く事件が増えることで、こどもだけで外にいる時間はさらに減っていっています。将来の不安からたくさんの習い事をして、こどもの内にできることを増やす努力を強いられているようにも感じます。

 
 私の小さな頃は今以上に学校は厳しく先生の体罰も当たり前にあり、価値観の押し付けだけで言えば昔の方がよっぽど大変です。もちろん先生に殴られた記憶は思い出すのもつらいですが、自由がなかったかというとそうでもありません。
 朝早く学校に行って校庭で自由に遊んだり、休み時間も競うように場所取りをして身体を使って遊んでいました。土曜日や放課後に自主的に残って係の仕事をしたり、学級新聞づくりをしたりという思い出もあります。学校から帰っても外で遊び、時には夜の公園に集まって鉄棒の練習をしたこともありました。学校だけ、家だけが自分の世界の全てではなかったし、こどもの判断に緩やかに任せられていることが多々ありました。今のようなSNSもなかったので社会での「当たり前や普通」に親もこどもも押しつぶされることが少なかったのではないでしょうか。
 現代社会は様々な環境の要因から、こどもの自由は奪われています。本来こどもは思う存分身体を使って遊ぶ中で、快や不快、好きや嫌いといった自分の心に自分自身で気づく緩やかな時間が必要なのです。
 小学生の低学年などは言葉にすることがまだまだできません。そもそもこどもが理由のない衝動的な行動をとるのは現在に限らず、昔から当たり前のことです。そこに「なぜ?」と理由ばかりを聞かれる戸惑いもあるでしょう。大人と同様の会話でのコミュニケーションばかりを大切にするのはとても危険なことだと思います。まずは感情を言葉にできるようにすることを目的とするのではなく、感情を発散させ、自分の心と出会う体験をたくさんできる場を作りだすことの方が大切なのではないでしょうか。
 
 
 
 

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