事務局長しんのエデュケーションコラム

Education Column of the secretary-general SHIN 

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2024年3月
こどもの意思だけではこどもの世界は広がらない

 
 だいだらぼっちでは登山や川遊び、キャンプ、スキーなどアウトドアによく行きます。自然に囲まれた山の中に住んでいるからこそ楽しめるもの。こども時代に存分に味わえるのは幸せなことです。
 ただだいだらぼっちの場合は、「全員で行く」ということは実はそれほど多くありません。登山に行くにも、「何時に出発して、何時ごろに山頂に着き、お昼は何を食べて、何時に帰ってくるか、持ち物は…」と全てこどもたちが決めますが、行くか行かないかもそれぞれのこどもが決めます。
 大抵のこどもたちは「1年間親元を離れ、こどもたちの力で暮らす」というチャレンジに参加するくらいなので、経験したことがないことにも「とりあえずやってみる!」という積極的なこどもが多いですが、中には断固として「行かない」と言う子もいます。
 「興味がない」というのもありますが、それよりも「運動が苦手」という意識がある子にその様子はよく見られます。「行ったら楽しいよ」としつこく誘っても、なかなか首を縦に振りません。しかしある子がスキーに行くようになりました。
 きっかけは学校のスキー教室。こちらは本人の意思は関係なく、言葉を選ばずに言えば強制参加です。しかしきっと楽しかったのだと思います。その後のだいだらぼっちのみんなでスキーに行こうという計画も、迷うことなく手を挙げて参加。同じくかたくなに拒否していた登山にも参加するようになりました。
 知らない世界に飛び込むのはムリヤリでも構わないのです。「自分の意思」が尊重されることは大事ですが、自分に自信がなかったり、知らないことへ抵抗あるこどもは、自分の新たな一面を知らないまま終わってしまいます。
 私がグリーンウッドで働くようになって20年が経ちました。来たばかりの頃と比べてもこどもを取り巻く環境はますます厳しく、各家庭の価値観や収入によって得ている体験の格差が広がってきているように感じます。体験が少ないということは、理解の土台が少ないということです。例えば「自然を大切に」という言葉は当たり前のことであり、異論を差しはさむものではありませんが、本当に理解しているかどうかは「自然の中で暮らし、大切にしなければ自分の暮らしが成り立たない」という体験があってこそのものです。体験不足は世界を理解する機会の喪失と、自分の可能性を広げる機会の喪失でもあるのです。
 「とりあえずやってみよう」という姿勢こそ、体験の数を広げ、だいだらぼっちを離れても自分自身で扉を開く原動力になります。こどもの可能性に蓋をせず、いかにチャレンジさせるか。本人たちの意思に任せるだけではなく、時に背中を押したり、手を引いたり、背中を見せたり、放っておいたり、様々な関わり方ではじめの一歩を歩ませるのが私たち大人の役割なのだと改めて感じています。
 2023年度もお世話になりました。グリーンウッドの活動に延べ2万人以上の方が参加し、新たな世界を手に入れています。引き続き2024年度も活動して参ります。応援よろしくお願いいたします。
 
 
 
 

2024年2月
こどもはこども同士で育つ

 
 だいだらぼっちは薪の暮らしをしています。薪割はこどもたちの大好きな暮らしの仕事のひとつであり、大きな薪が割れれば割れるほど仲間から尊敬されるひとつのステイタスでもあります。
 しかし一時期薪割が廃れたことがありました。助成金で買った薪割機が導入されたためです。エンジンで動き、スイッチ一つで大きな薪をバリバリと割る姿にこどもたちは感嘆し、またそのメカ的な魅力から男子たちを虜にしました。
 そうなると割れない薪は薪割機で割るということが当たり前になります。むしろ機械を動かしたいので、ちょっと頑張って「無理なら機械で割ればいい」となり、薪割は楽しむためのアトラクションになってしまいました。
 これは「自分たちの手と足と知恵を使って暮らす」というだいだらぼっちにおいては危機的状況。あわてて薪割機を使わないようにしましたが、時すでに遅し。割れるのは中学3年生男子1人だけになっていました。
 なんとか薪割文化を復活すべく、面倒くさがる男子たちの前にわざわざカラカラに乾いた薪を目の前に置いてあげ、ほめたり持ち上げたりしながら薪割をやらせました。最初はしぶしぶだったこどもたちも、さすがに徹底的に乾いた薪はおもしろいように割れていきます。そこまでいくと成功体験からいつしか大人でも割れないような薪まで割るようになりました。
 翌年はその子たちが新しく参加してきた仲間の前でバンバンと割る姿を見せます。すると大人が何も言わなくても、全員が薪割にチャレンジし、いつの間にか割れるようになっているのです。これは「同じ小学生のあいつが割れるなら自分も割れるはず」という見本になるからです。
 こういった姿は暮らしのそこかしこに表れます。例えば木で器づくりをする子がいると、何人もチャレンジしたり、重い薪を競うように運んで力を点けたり。1年に一度行われるだいだらぼっち劇場と言われる劇でも、恥ずかしがらずに堂々と演技するのは、周りの仲間がそうだからです。
 だいだらぼっちはこどもたちがご飯を作り、掃除も洗濯も薪の風呂焚きもなんでもやります。もちろん過不足は当然ありますが、みんな一通りのことができます。それは一緒に暮らす仲間がやっているからに他ありません。同じ仲間の背中の方がこどもたちにとって手に届く見本となり、刺激となって、成長を加速させていくのです。
 教育における集団生活のおもしろさは、仲間ができることは自分もできると可能性に蓋をせず、自ら希望を生み出していく姿にあるように感じます。
 
 
 
 

2024年1月
テレビなし生活から考える

 
 昨年引っ越しをしたタイミングでテレビの契約ができなかったため、しばらくテレビなし生活をしていました。しかし、なければないで全く問題ないこともわかり、固定費でそれなりにお金もかかることも考え契約を止めてしまいました。完全なテレビなし生活です。はじめはブーブーと文句を言っていたこどもたちもそのうち慣れてきて、あまり不満も出なくなりました。家に帰ったら点ける。暇があったら点ける。と日常にあったテレビの音がすっかりなくなり、変わりにラジオを聞くようになっています。時間の使い方も有意義になりました。
 一方で新年早々に起きた能登半島地震の様子はラジオでは断片的なことしかわからず、また新聞でも全体像がわかりません。たまたま外出先で見たニュースで映像を見たときに、どれほど大変なのか、またインタビューに答える方のお話からも大変な状況がより理解でき、改めてことの重大さを感じることもありました。映像で現地の様子を見られるというのは情報量としてとても大きいのだと感じます。
 ウクライナとロシアの戦争、イスラエルのガザ侵攻など、胸をふさぐ出来事が毎日のようにニュースで流れてくると、なるべくニュースを見ないようにすると言った方が増えているという話も聞きます。私のようにラジオだけに暮らしになるとそういったストレスは少なくなりますが、逆に言えば圧倒的に被災地や紛争地の情報に触れる時間も減り、かの地の人々のことに思いを馳せる時間がほとんどありません。精神衛生上は良いのかもしれませんが、心の片隅にでも湧き上がらないことに罪悪感も少なからずあります。
 情報を与えられ続けないと、想像できない、共感できないというのは問題です。それは映像を見せられ、感情を揺さぶられることに慣れきってしまった生活があるのだと思います。むしろセンサーが鈍化しているとも言えるのかもしれません。となるとより過激な映像でないと動けないということもあるのではないかと危惧しています。
 よりわかりやすく、問題があっても矮小化され単純化されるニュースが増えている今だからこそ、映像での印象から感情で判断せず、事実から理解し、咀嚼し我が事とする力が求められているのだと思います。
 最後になりますが、1月1日に起こった能登半島地震に被災された皆様には謹んでお見舞い申し上げます。一日も早く心穏やかに暮らせるようになることを祈っております。
 
 
 
 

2023年12月
寒くない冬に思う

 
 11月にだいだらぼっちのこどもたちと登山に行きました。11月ともなれば、山は冬支度をはじめます。この時期に登れる山を限られてきますし、例え標高2000m程度でも雪の可能性もあり、冬の備えは必須となります。
 そこで今回は八ヶ岳の入笠山に行くことにしました。登り始めこそ10℃に満たずしっかりと着込んで歩き始めましたが、登るにつれて、毛糸の帽子を脱ぎ、手袋を脱ぎ、上着を脱ぎと最後はTシャツ1枚になっていました。こどもたちには「相当寒いから装備を忘れると泣くことになるよ!」と脅し、荷物チェックも厳しく行いました。にも関わらずこの状況だったので、こどもたちからは「全然必要ないじゃん!リュックがパンパンなんだけど!」と散々不満の声をあびることになりました。
 登山自体は雲一つない青空の中、春のような穏やかな天候でとても楽しい時間を過ごせました。
 しかしこの暖かさは別の心配がよぎります。
 
 地球温暖化が進んでいます。私が泰阜に移住した当時は、池の水が凍ってこどもが乗れるほどの厚さになりましたが、ここ最近は氷が張る日も少なく、本来雪になるところが冬の雨も珍しくありません。
「暖かい冬は楽でいい」とお気軽に言えない状況も増えています。最近は同じ長野県の白馬村でも土砂災害がありました。積もっていた雪が急激な温度上昇で溶けたことによるものです。また冬の寒さがないと山が保水せずに夏の水量が減ってしまう影響もあります。
 目に見える、肌で感じるほどの変化が急激に進んでいますが、異常気象も毎年のことになれば「例年通り」になってしまいます。
 
 ウクライナとロシアの戦争も報道されることも減りました。今はイスラエルパレスチナでの戦闘の方が大きく取り上げられていますが、長引けば同様に報道の量は減ってくるでしょう。コロナウイルスに振り回された日常もいつしか当たり前となり、今ではあの日々も遠い昔になってしまいました。環境に順応しなければ生きていけませんが、決して慣れてはいけない出来事が私たちの周りにはあふれています。
 私たちに必要なのは、変化に気づき、自分事と捉える感性と「何かできることはないか」と行動する力です。その力は経験からでないと身につきません。そのための教育活動をこどもの体験の場として提供し続けてきましたが、改めて今の社会と照らし合わせながら、「何をすべきか」を考え続けなければいけないと感じます。
 2023年もたくさんの応援をありがとうございました。新年度も現状に甘えず山賊キャンプのオキテの通り「チャレンジが基本だ!」の精神で新たな世界を切り開いてまいります。引き続き応援よろしくお願いいたします。
 
 
 
 

2023年11月
大人も成長できるくらし

 
 つい先日薪ストーブが我が家にやってきました。冬も本格的になり毎日ワクワクしながら火をつけています。しかし薪ストーブが大変なのは、毎日火をつけることよりも燃料となる薪を集めることです。今年は村の方のご厚意でたくさんいただけましたが、さて来年もちゃんと集めることができるのかどうかと不安もつきません。
 
 これまで薪作業といえば、だいだらぼっちのこどもたちと一緒に、大量の薪を切ったり、割ったり、積んだりして1日がかりの大仕事でした。当然我が家のものとなれば、規模も小さくなり、こどもたちの手伝いがあったとしても自分1人で作業することが多くなります。
 チェーンソーで玉切りにし、斧で割り、積んでいく。大変なことは大変です。しかし、自分ひとりでもできるんだという発見もあります。泰阜村に来て早20年。それまでは都会暮らしで薪を使う暮らしも知らなければ、ましてやチェーンソーなんか見たこともありませんでした。曲りなりにここでの暮らしを積み重ねていくと、一通りのことはできるようになっているのだと改めて気づきます。50歳も近くなっても、自分の知らない自分に出会えるという喜びと、まだまだこれから新しいことができるのではという未来へのワクワクにもつながっています。
 
 主催事業の山賊キャンプもできなかった先が見えないコロナ禍での3年間は、とにかくがむしゃらに思いついたことをやってみようと動いてきました。そのおかげもあって、新たな仕事や出会いもあり、これまで挑戦してこなかった仕事に関わる機会に恵まれています。一方で慣れない仕事は他の仕事とのバランスに苦しんだり、考えることが増えたりと「大変なことを引き受けてしまった」と感じることもしばしば。ただそういったムリヤリなチャレンジのおかげで発見できる「自分」というものも多々あります。
 山賊キャンプでは「チャレンジが基本」を合言葉にこどもたちの成長を応援しています。改めてこの言葉は、ただの合言葉ではなく自分自身への挑戦、つまり自分自身も知らない、出会っていない自分を発見するための大切な行動指針なのだと思います。
 新たな自分の発見は人生の豊かさにもつながっていきます。暮らしや仕事の日常にそんな場がたくさんあることに感じているこの頃です。
 
 
 
 
 

2023年10月
「楽しい」を伝えるのは難しい

 
 中学時代は剣道部に入っていました。中学校では1,2を争う厳しい部活で体罰も当たり前でした。憧れて入った剣道部にも関わらず、一度も楽しいと思ったことはありません。
 さて時代も変わり、今は体罰は禁じられ、厳しい部活よりも、「こどもたちが主体的に取り組める楽しい部活」が注目されています。つらい剣道部時代を振り返り、いい時代になったなと素直に感じます。
 一方でこの「楽しい」というものはとても難しいものです。
 
 だいだらぼっちのこどもたちに1年の振り返りの際に「一番楽しかったことは?」と「一番大変だった、苦しかったことは?」と聞くと、驚くことに同じものであることがとても多いのです。例えば「お米がたくさんとれて楽しかった!」とお米作りが楽しかったと答えた後に、「田んぼの草取りがメチャクチャ大変だった」と言ったり、「みんなで力を合わせてとんでもない大木を引っ張り上げたのが楽しかった」と薪作業を上げたことに対して、「何度も往復して薪を運んだのがつらかった」と答えます。こちらは大人の話ですが、先日あるイベントの打ち合わせで、「村の味噌づくりのイベントはやっぱり50人くらい来てもおもしろいですよね」と役場担当者が話していました。実は以前そのイベントをしたときは「40人はもう限界。もっと少ない方がいい」と振り返りの議事録に書いてありました。
 振り返ると「楽しい=楽」ではないのです。手をかけ、時間もかけ、たくさんの人と関わる面倒も乗り越え、自分次第で未来が変わる実感こそが本当の楽しさなのだと思います。
 
 体罰を存分に受けた身から言わせてもらうと、50歳近くなって昨日の夕飯は忘れても、あの時の体罰(暴力)は鮮明に覚えています。それだけつらい記憶です。ですからスポーツや部活が楽しい、好きだというのはとても大切です。一方でこどもたちにその「楽しさ」の本質を伝えられる指導者でなければ、安易に「楽しい」が礼賛される風潮は、こどもたちの今後の歩き方を左右する非常に危なっかしいものになると感じます。本やネットでも「自分の楽しいことをしていればやがていい出会いが引き寄せられる」という言葉をよく見かけます。私もその通りと思う反面、「楽しい」の本質的意味が腑に落ちていない人には、非常に甘い、むしろ毒のような言葉だなと捉えています。表層の楽しいことばかりを追い求めた先には、狭い世界しか用意されていません。
 こどもたちに「楽しい」の入り口から何かを伝える時に大切なのは、大人がいかに「本当の楽しさ」を体験として知っているか。なのだと思います。
 
 
 
 
 

2023年9月
コスパと回り道

 
 山賊キャンプから帰ったこどもたちの様子を保護者の方から聞くと、「ご飯作りをするようになった」「家でありがとうとよく言うようになった」とこどもたちの良い変化を聞くことが増えました。キャンプを運営するものとしてはこれ以上ないうれしい反応です。一方でキャンプに行ってわかりやすい効果が出ないからといって無駄なわけではありません。長い年月をかけた先に、「めちゃくちゃ時間がかかったご飯作り」や「川に飛び込む勇気」「仲間とのトラブル」の体験が根を張り、彼らを支えてくれるのだと思っています。
 山賊キャンプでこどもたちに得てもらいたい力は、簡単に言えば「主体性」「協働力」「創造力」「対話」です。それらを手に入れるためには必然と偶然の体験が必要ですが、「いつ出会うかわからない」ので長い時間が必要です。もちろん山賊キャンプでは効果的に得られるようプログラムデザインがされていますが、それでも最低3泊4日はないと難しい。現代社会のコスパ・タイパ論からすると、とてもタイパが悪い教育活動なのかもしれません。
 
 目的を達成するためにはコスパ、タイパが良い方を選ぶのは当然です。例えば我が家がディズニーランドに行こうと思えば、相当の時間とお金がかかります。家族みんなが十分楽しめ、かつ時間やお金もかからない方法があるならばそれに越したことはありません。しかしコスパタイパだけを行動指針にすることは非常に危険だと感じます。
 
 私は大学時代演劇をしていました。だいだらぼっちでは毎年恒例で劇を上演するので、それに向けてこどもたちと台本を作り、劇の演出の手伝いをしますが、その時の経験が非常に役に立っています。それ以外にも芝居をしていたことで客観性を得たことや、ギリギリまで粘れる心構え(学生時代の台本がいつも本番ギリギリに完成だったので)、大道具作りの経験のおかげでDIYもそれなりに特異ですし、人前で話すことに臆することもありません。過去の経験が今を支えてくれるのだから驚きます。重要なのは、これらのスキルや考えを求めて演劇をしていたわけではないということです。
 
 高校が大学の予備校となり、大学が就職のための時間となり、就職、結婚、妊娠、果ては人生の終わりなど様々なライフステージを○活と捉えて矮小化してしまい、常に目的に向かって急き立てられている時代に求められたのが「コスパ・タイパ」なのだと思います。故に失敗を恐れ、前に進む力もそいでいる気がします。
 人生の目標も自分の可能性もわからないこどもたちにゴールや成果を求めすぎているように感じます。「将来何になりたいか?」という夢を持つことはいいことですが、それがすなわち人生の目標ではありません。たくさんの回り道、迷い道、寄り道があってやっと「自分のやりたいこと」や「進むべき道」を発見します。その発見の過程こそが「人生の意味」を見い出す目を養わせるのだと思います。何が役に立つか、立たないかは誰にもわかりません。余白こそがこどもを育てるという考え方を今の社会にどのようにすれば共感者を増やせるのか、その難しさも感じます。
 
 
 
 
 

2023年8月
「失敗」の成功体験

 
 キャンプを何十年もやっていると決まったパターンに気づきます。山賊キャンプはお昼を除く朝と晩のご飯作りをするのですが、最初のご飯作りでうまくいく(火おこしも料理も皿洗いも)グループは、総じて後半に行くにつれうまくいかなくなっていくのです。逆に、最初に失敗しているグループほど、後半になるにつれどのグループよりも早く出来あがったり、結束力を増している様子が見られます。
 
 その理由は、「失敗」に気づいたかどうかです。初めにうまくいってしまうと、同じようにやればよいと考えて振り返ることをしません。一方で失敗したグループはうまくいかなかった理由、例えば「協力してくれない人がいた」「火おこしばかりに人が集まって、野菜を切る人がいない」「ご飯作りに集中して片付けが最後にたまってしまった」など、失敗したことをどうにかしようと考えます。またグループの仲間全員が同じ痛い目(ご飯がなかなか食べられなかった。他のグループよりも遅い)にあっているので、次こそはと同じ目標に向かいやすくなります。
 かの野球監督の野村さんは「負けに不思議の負けなし。勝ちに不思議の勝ちあり」という言葉を残しました。キャンプも同様でうまくいった理由をみつけるのは難しく、失敗は次の成功への足掛かりになります。
山賊キャンプのおきてに「チャレンジが基本だ」というものがあります。この言葉の裏にあるのは「失敗してもいい」ということ。キャンプから帰ったこどもたちの声を聞いた保護者の皆様からたくさんのアンケートが届いていますが、「失敗してもいいんだよ」「最後のご飯は一番うまくできた」という言葉が印象に残っているとありました。こどもたち自身が学びをつかみとったのだとわかります。
 
 こどもたちは実感を通して学びを得ていきます。学力とは違い、学ぶとは自ら獲得し、自らを育てていくものです。ですから体験のないところに学びはありません。「失敗してもいい」という言葉を教えられても、こどもたちはチャレンジする動機にはつながりません。「失敗」の成功体験はこどもたちの成長の礎です。
 未知のウイルスや年々大型化する台風、突然の豪雨や記録的な猛暑など、ここ数年のキャンプは対処しなければならないことが増え、ひと時も心休める時間はありませんでした。キャンプを行うリスクも多岐に渡り、果たしてこのままキャンプを続けられるのかと途方に暮れることもあります。しかしこの夏のこどもたちの自分の可能性を自らの力で広げていく姿を見て、改めてこどもたちの体験の場はどんなことがあっても死守しなければならないと決意しています。
 
 
 
 
 

2023年7月
「こんなにありがとうと言われる暮らしははじめてです」

 
 グリーンウッドではインターンを受け入れています。それぞれ「将来教育に関わりたい」「おもしろそうなところだから」「地域作りを学びたい」と参加してきます。日中はグリーンウッドの仕事のお手伝い、夕方から放課後児童クラブ、その後はだいだらぼっちのこどもたちと過ごすといった濃密な時間を過ごします。昨年度は7名89日間受け入れました。コロナも5類となり、今年はさらに増えそうです。
 2週間ほどのインターンを終えると参加者との振り返りをするのですが、ここ最近その中でよく聞く言葉があります。それは「こんなにありがとうと言われる暮らしははじめてです」。
 ご飯を作ってくれて「ありがとう」、洗濯ものを取り込んでくれて「ありがとう」、仕事を手伝ってくれて「ありがとう」、宿題を教えてくれて「ありがとう」・・・。
 そういわれると確かにグリーンウッドでありがとうという言葉は頻繁に使います。そして思い返してみると、私自身も来たばかりの頃にどんなことをしてもかにさんが「ありがとうございます」と言ってくれるのを不思議に思っていました。当たり前なことをしたのだから、そんなに言わなくてもいいのにとも。
 しかしこどもと大人を合わせて総勢40人近い人が暮らすと、何かをしてくれるのが「当たり前」ではないことに気づきます。だから「ありがとう」という言葉が出てくるのです。こどもたちは朝晩のご飯を作りますが、全員ではなく毎日誰が作るかを決めています。自分が作る当番に入ることもあれば、誰かが作ってくれることもある。だからありがとうと言います。こどもはチェンソーを使えないので、大人が木を切り倒し、薪のサイズに切ります。森の作業に行くときも「ありがとう。よろしくお願いします!」と言ってくれます。お互いに関わり、時に誰かの支えになったり、支えてもらったり、みんながいるから暮らしているという実感があるのです。
 コンビニで何かを買うときに「ありがとう」と言うのは変だというような話がネットであがっていました。それは「お金を払っているのはこちらなのだから、当然のことをしてもらった」という考えなのかもしれません。どんなサービスもお金を払って得られる対価ではありますが、そのサービスを提供するまでの準備があって成り立つものです。今の社会は分業制となり、それぞれの役割を担っているから回っています。そこにそれぞれへの感謝がなければ、やはり息苦しいものになるのではないでしょうか?
 「人は1人では生きていけない」という言葉が実感を持って感じることが少なくなっています。それは関係性の希薄さや個人の存在理由のあやふやさ、自己肯定感の低さにもつながるように思います。インターンの学生たちが「ありがとう」に感動したのは、人同士の濃密な関わりの中に自分個人の大切さに気付いたからなのではないかと感じます。
 
 
 
 
 

2023年6月
村の方の後ろ姿から学ぶもの

 
 我が家の煙突を見て、村の方から「齋藤さんちは薪ストーブだら?薪があるから持っていきな」と声をかけていただきました。その後も、「薪置き場がないな。薪小屋を作るための栗の木があるから取りにおいな」「栗の木だけでは建たんから細いヒノキも必要だな。隣の家の山に立ってるのを何本かもらう話をしているから、一緒に倒してやるから取りに行こう。」と次々とお声がけいただきました。ここまでやっていただけることに感謝しかありません。
 この方はだいだらぼっちのこどもたちの畑の師匠でもあります。わからないことがあったらすぐに聞きに行ったり、時には余った苗をいただいたり、採れた野菜をもってきてくださったりと常に気にかけていただいています。
 都会で長く住んでいましたが、ご近所に住んでいるというだけでここまで世話をしてくださる方はいません。20数年前に東京で一人暮らしをしていた際、お隣さんに引っ越しの挨拶をしたのですが出てきていただけませんでした。わざわざ挨拶にくるなんてと、逆に怪しい人と捉えられたのだと思います。都市部では人と深く接しないことがリスクマネジメントなのです。
 泰阜村では大変な作業は寄り合って行います。困ったとき、どうしようもないときに声をかけると知恵をいただいたり、他の方を紹介してくださったり、手を貸してくれます。一人では暮らせない山の暮らしだからこそ、関係性を築くことで維持してきたのです。
 ある意味山村での人づきあいはリスクヘッジです。年を取り、どうしようもなくなっても隣近所が気にかけてくれる。小さなこどもが遊んでいたら目の端で見ていてくれる。「お互い様」と「持ち寄り」は面倒ではあるけれど、人が暮らす社会の大切なキーワードです。お金やサービスで同じようなものが手に入るかもしれませんが、根本的に違います。それはそれぞれの人が同じ社会を共有する人たちと関わりを持とうとして生まれているからです。そしてこれこそ「豊かさ」なのだと感じています。
 私自身もできることを持ち寄って、村の暮らしを成り立たせる一員でなければいけないということ。そしてこれまでやっていただいたことの恩返しを、私よりも若い人にわが身の行動として返していかなければならないのだと、村の方の後ろ姿から教えられています。
 
 
 
 
 

2023年5月
4年ぶりに復活!100名の作業合宿 

 
 4年ぶりに保護者も集まり、総勢100名近い人数でのゴールデンウィーク合宿を行いました。ゴールデンウィーク合宿とはこども、スタッフ、保護者、OBOGがゴールデンウィークに集まり、だいだらぼっちの1年分の薪を準備する作業合宿です。新型コロナウイルスの分類が5類に移行されることに伴い、4年ぶりに復活です。
 だいだらぼっちでは薪は必需品です。合宿がなくても薪は用意しなくてはならないため、コロナ禍では、こどもとスタッフだけで丸2日の作業でなんとか用意していました。言い換えれば、わたしたちだけでもがんばれば準備できるわけで、それならばわざわざ保護者の予定を押さえて、何も道路が渋滞するゴールデンウィークに行わなくてもいいのではと思われるかもしれません。しかし、この合宿を行うことに意味があるのです。
 
 一緒に作業を共にすることで、こどもたちが体験しているだいだらぼっちの日常を保護者自身が理解できます。こどもたちは山に行って薪をとり、毎日薪を焚いて風呂に入ります。言葉で聞けば簡単ですが、真の意味で理解するには、自ら重い薪を運び、割って、風呂を焚くまでやらなければわからないのです。思った以上に重い薪、簡単には割れない大きな薪に驚き、そんな暮らしを1年間過ごすこどもたちへの尊敬にもつながります。「作業はさぼらずちゃんとやれよ!」なんて、軽々しく言えなくなります。「今日は薪作業で大変だった」という電話越しのこどもの言葉に対する返答は、身をもって体験してこそ答えられるものです。
 作業の後の大人の懇親会も復活しました。お酒を一緒に飲めばつきあいが深まる、ということもあるかもしれませんが、そればかりではありません。こどもたちのだいだらぼっちでの様子、家族の話、趣味の話、お仕事の話、お互いを知ることで安心感と親近感が生まれ、コミュニケーションの下地ができます。大人になると知り合いができるのは仕事上だったりと、無関係な人とのつながりを作ることは減ってきます。だいだらぼっちにこどもを出さなければ絶対に出会わない人同士の関わりは、多様性や協働の大切さを大人にも教えてくれます。また大人の環が広がり大きくなることで、こどもたちはより安心して活動できるのです。
 だいだらぼっちの暮らしは1年限りですが、ここで得たものはこどもにとって一生のもの。親御さんが、こどもたちが1年の暮らしでつかみ取ったものを理解することで、その後の応援や関わりは自ずと変わります。その大きなきっかけになるのがこの合宿なのです。
 
 コロナウイルスの感染力が下がったわけではありません。しかしコロナが5類になり関わりが変わったことで、コミュニケーションの質も量も変わりました。
 距離を離し、顔を見せず、集まることを禁止されていた3年間で失ったものは、共感、共有という人間にとって一番大事な感覚だったと思います。しかし、目に見えない感覚は例え奪われても気づきません。特にこどもたちにとってかけがえのない成長の3年で得られなかったもの、奪われたものがわからないことに怖れを感じます。
 このような社会がまた再びいつ来るかわかりません。感染対策という方法が次回生かされることも大切ですが、何を失ったのかを振り返ることも重要なのだと思います。
 
 
 
 
 
 

2023年4月
今の教育に必要なものはなんでしょう?

 
 昨年度からLearn by Creation Naganoという取り組みに実行委員として関わっております。年度末のイベントでは、ゲーム開発会社である株式会社アソビズムの大手社長と手作りおもちゃ作家の佐藤蕗さんの対談にファシリテーションとして参加する機会をいただきました。
 どちらのお話しも魅力的で、子育て中の親御さんにはやわらかくも胸を打つ話題に、私自身も刺激をいただきました。YoutubeにUPされているのでぜひご覧ください。(https://www.youtube.com/watch?v=jG59HRshrr4&t=700s
 その話の中で印象に残っている話が2つあります。ひとつは目の前のこどもに合わせて子育てをカスタマイズする。というお話。世の中に育児に関わる本はあふれるほどあり、たくさんの情報が書かれています。しかし書いてある通りに育たないことも当たり前です。「この時期にはこういったことが身につく」というような情報に振り回されるよりも、結局は目の前にいるのは我が子だけなのだから、その子の興味や行動に寄り添う方がよっぽど楽だという話でした(ちなみにさんざん育児書を読みふけった最後に行きついたとおっしゃっていました)。その他にもその子が集中しているときは邪魔をしない。安易に答えを言わない。こどもの時間軸を大切にするなど話題が出てきましたが、こどもが伸びたいと思う方に伸びる手伝いをする方が、こどもにとっても親にとっても実は気持ちが楽なことなのだと思います。
 もうひとつは親の在り方。お二人の親御さんがどのような人だったかというお話しです。大手さんはお父様の仕事場にあったパソコンでゲームのプログラムを作ることから今の仕事につながり、佐藤さんは、お母さまの何事も楽しもうとする姿勢がつながっているというお話でした。どちらも「そのようにしてほしい」と育てたというよりも、関わり方、あり方が育てたのだと思います。
 こどものためにと「してくれたこと、教えてくれたこと」よりも、親が一人の人間として「どんな風に暮らしていたか」「何を大切にしていたか」という姿勢が大きな影響を与えているのです。
 自分自身も年を重ねるごとに父親の言い方や振る舞いに似てきているなと感じることもよくあります。結局は育ててもらったようにしか育てられないのだと思います。
 今社会は、気候変動、戦争、格差社会…と正解のない課題があふれています。混沌の世界を生きるためにこどもたちに必要な教育は何か?という問いは、つまりこの社会の中で、あなたが大切にしているものは何か?どのようにして生きるのか?を問い、目の前にいるこどもたちに後ろ姿で見せていくこと。そこに他ならないのかもしれません。