事務局長しんのエデュケーションコラム

Education Column of the secretary-general SHIN 

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2022年8月
コロナ禍の山賊キャンプが終了しました

 
 2022年度の山賊キャンプが8/29をもって終了しました。
 新型コロナウイルスの感染拡大がはじまった2020年は全面中止。2021年は参加人数を1/4に縮小して実施しましたが、再び感染が拡大して無念の途中中止。今年度はコロナ前の半分の規模にして、できる限りの実施方法を検討してスタートしました。結果1コースを中止としましたが、18日程のキャンプをなんとか実施することができました。参加者数はこども434名とボランティア127名でした。
 事前検査や1日4回の検温、黙食の徹底など、まだまだ制限も多く、コロナ前の姿には戻すことは難しいですが、それでもこどもたちがこどもたちらしさを発揮し、思う存分身体を使って遊ぶ姿を見て、「終えられた」ことに大きな価値があったと感じています。
 キャンプが終わって保護者からのアンケートが続々と届いています。感覚的にはこれまでのキャンプよりも反応も早く、数も多いように感じます。その中の言葉からキャンプの様子をお伝えします。※以下カッコ書きはアンケートの言葉を要約して記載しています。
 
 「お迎えから自宅に帰るまでずっと興奮状態で話し続けていました」「兄弟でキャンプに参加。どちらも我先に話したくて兄弟げんかしています。」
 溢れるほど話したいことがあるのは、親としてもうれしいものです。中にはこんな言葉も。
 「いったい普段の学校や家庭と何が違うのでしょうか?」
 
 ひとつには、「話し方がグンと大人っぽくなった。いろんなことを自分で決めたんだと自信たっぷりです」の言葉の通り、「自分で決めた」ことを実行していることに他ありません。
 その中には「勇気を振り絞って川に飛び込んだ。怖かったけれどやってみたら平気だったよ」や「敬遠していたズッキーニを食べたという話」にも表れます。
 ちょっとの勇気が世界を広げる。その世界を広げるのは自分であると気づけたことに大きな意味があります。
 
 チャレンジすれば当然失敗もあります。「お米を12合焚いて」しまっても、「キャンプ中に何度もリトライできたこともよかったです。2泊ぐらいのキャンプでは一回でうまくいかないことがほとんどなので」のように、失敗が取り返せることで、失敗を肯定的に捉え、「自分から率先して何かをやろうとする意欲や人を助けようとする姿勢」へと変化します。
 すでにキャンプで得たものが家庭に表れている様子も届いています。「家でもお手伝いを積極的にやるようになった」「自ら料理を毎日2品作っています」「全部手作りのゼロコースに行って、普段いかに楽に過ごしていることに気づき、文明てすごいな。と話しています」と、暮らしへの関わり方と見え方が変わり、行動や価値観を自ら変えていきます。
 
 「流れ星が見えてものすごくきれいで感動したと一番に話してくれた」「野宿をしていて、夜中に目を開けたら、見えたんだよ星が!」「天の川が見られたよ、朝焼けがとてもきれいだった。見たことのない小さいセミがいた」
 同じ場所にいてもそれぞれが獲得するものは異なり、それが肯定されれば、こどもたちは自分の感性をどんどんと磨いていき、世界を感じとるセンサーを磨いていきます。
 
 仲間との暮らしでは、「人に何かしてもらったらありがとうと言えるようになって帰ってきました。当たり前のことですが、つい日常ではおろそかになっていました。」と他者との関わりの中で、大切なものに気づくこともあります。
 
 「自分で決めて色々できるのが楽しい。暇な時間がない」と話す通り、山賊キャンプの「魅力はこどもに主導権があること」です。この場があるだけで、こどもは変化します。しかしその場を創り出すためには、周りの大人がゆるやかな輪を作らなければなりません。
 
 「コロナ禍の中実施していただき、ありがとうございました。」
残念ながらひと組のキャンプ終了後に感染の連絡もありました。それでもまたとないこども時間に、こどもの身一つで体験する場を用意できたのは、私たちだけの力では実現できませんでした。地域の方、そして保護者の方の理解と協力があってこそのものです。与えられることが当たり前の現代において、誰もがその場を作る参画者になれるのが、山賊キャンプの本当の魅力であり、力です。「親の期待を持ち込まない」の言葉にこの指とまれをしていただいた皆様に深く感謝申し上げます。
 
 「不便な生活の中で、こんなにもこどもが成長するのだと知りました」
仲間と四苦八苦しながらご飯を作り、雨を乗り越え、時にさみしさに耐えながら過ごすキャンプで得たものは、自分の全身すべてで浴びた体験と、自らの動いた心に耳を傾けた時間です。それらが全てこどもたちの血肉となり、ねっこの栄養となります。
 
 わたしたちも一歩踏み出す勇気をこどもたちからいただきました。不透明な時代を切り開くのは自分たち自身であると覚悟を決めた夏となりました。
 
 
 
 

2022年7月
一人一票の難しさ

 
 だいだらぼっちも1学期を終えようかという時期に、こどもたちから「だいだらぼっちはこどもが主役と言っているのに、大人が決めている!」という意見が出て、話し合いが持たれました。
 しかし「大人が決めた」と言われるその話し合いは、こどもたちからも意見が出て全員で決めたもの。大人が決めたというのは納得が行きません。(話し合いの詳細は長くなるので割愛します)
 そこで私も意見を言おうと手を挙げかけたのですが、他のこどもたちから「えっ、あれってみんなも『いいです』って言ったよね?私もいいですって言ったから、全然大人が決めたとは思っていないよ」「俺も納得してるし、むしろ納得していなければ絶対いいとは言わない」という意見が出てきました。「確かに大人が最後に話し合いをまとめてもやもやすることはなくはない。でもそれは意見が言えなかった私たちの問題もあるんじゃない」
 ものすごく冷静で的を射た意見です。しかも私も言いたかったことを全部言ってくれました。私が言わずとも、こどもたちはちゃんと理解していたし、なにより一人の人として自律していました。余計なことを言わないで本当に良かったと胸をなでおろすのと同時に、こどもたちの頼もしさに改めて驚かされた出来事でした。
 「こどもが主役」とは、こどもが決めた意見が、まるごと、そのまま、その通りになることではありません。誰もが主役なので、一人だけ主役になって、他の人はわき役というわけではない。となれば当然、出した意見が通らないこともあります。こどもが主役とは、自分が自分のことを決めるという覚悟です。言葉の意味を取り違えてしまうと、自由と勝手が混同されてしまい、自分勝手なつまらない場所になってしまいます。だから「一人一票」というオキテが大切なのです。
 
 一方で、「大人が決めている!」という言葉は、だいだらぼっちで働く私たち大人にとっては最も重い言葉です。だいだらぼっちが大切にしていることを、大人が壊してしまっているかもしれないし、そのつもりがなくても「大人が決めてしまっている」ことがあってもおかしくないからです。
 こどもと大人が同じ一票を持つ、一人一票の話し合いは本当に難しいもの。常にその危ういバランスを綱渡りのように歩いています。例えば待っていればこどもから意見が出ることもありますし、出ない答えに向き合ってなんとか意見を出そうとすること、あるいは意見が出ない時間もこどもたちにとって意味があります。また前述の通り、こどもからの率直な意見も出てきて、自分たちで解決する力もありますし、一方で私個人の意見が大人だからと言って押し込めることもいいわけではありません。
 大切なのは出した答えが良いか、悪いかではないのです。経験も考え方も年齢も違う人が集まり、目の前の問題を我が事として一生懸命知恵を寄せ集めて考えること、そしてお互いの意見に尊敬をもっていることが一人一票の本質です。誰もが率直に想いを伝えられ、聞いてもらえる場を守ること。それが私たち大人の責任なんだなと、書きながら改めて気づいてきました。
 
 
 

2022年6月
自ら考えるを育てるのは「不安定な場」

 
 今年は2年ぶりに、山賊キャンプもベーシック、チャレンジ、スーパー、ゼロと4つのコースを復活させ、平常運転に近づけて募集を開始しました。2年の間にリピーターたちも学年があがり、参加するこどもの数は減ってしまうのではないかと不安を感じていましたが、定員を大きく上回る申し込みがありました。うれしい悲鳴とはまさにこのことです。残念ながら申し込みから漏れてしまったこどもたちには申し訳ありませんが、今年の開催が足掛かりとして、来年度以降の定員増に進んでまいります。
 
 山賊キャンプは「こどもが主役」。つまり「主体性」を大切にしています。保護者の方から「うちの子、主体性がない」という言葉を聞くこともありますが、もともとは誰もが持っている力です。重要なのは、使わないとどんどん退化するということ。なぜなら人間は楽をするように作られているからです。考えなくてもいいのであれば、考えない方を選びます。
コロナ禍の様々な対策も同様で、当初は「毎日マスクをするなんて」「給食を黙って食べるなんて」と厳しい制限に不満や苦しさも感じていましたが、今や当たり前の風景です。対策を新たに考えるよりも、言われたことを守っていればある程度は身を守れる。ならば言われた通りにした方が良いということになります。しかも周りも同じ行動をとるのであれば、なおのこと。このコロナウイルスの影響では考える力、つまり「主体性」も奪われているのではないでしょうか。
 
 「自ら考える」場は、不安定な状況、決まっていない場にこそ生まれます。
山賊キャンプは自分たちで考える、こどもが主役のキャンプです。初めて会う仲間と、ご飯を作り、プログラムを考えます。しかも時計がない生活です。そこにはたくさんの「余白」があります。その余白は、「何が起こるかわからない」という偶然と、「自分たちで考えなければ進まない」という必然を生み出します。つまり不安定な状況に身を投じます。
 
 現代社会では、不安定さを快く思わない風潮が蔓延しています。一方で世界は、突発的な自然災害に未知のウイルス、戦争などが頻発し、いつ何時自分の身が不安定な状況に陥るとも限りません。そのためにできることは、「考えること」が奪われていることを自覚し、自分で考える場に身を投じることしかありません。
 
 これからますます想像もできない出来事が増えてきます。そして答えは自分ではない「誰か」が出してくれません。「自分で考える」の入り口として、この山賊キャンプに大きな意味を持つようになったと感じています。私たちの存在意義が大きくなることが果たして喜ばしいことなのか?その疑問を抱きつつも、それでも未来を少しでも豊かにするために、この夏、出会うこどもたちが存分に自分を発揮できる場を創ってまいります。
 
 
 

2022年5月
考えて創り出す経験

 
 「今年は登山にたくさん行きたい」とだいだらぼっちのこどもたち。早速5月に隣町の富士見台高原まで行ってきました。片道7kmと長距離登山ではありますが、苦しい登りははじめだけなので、今年のこどもたちの体力を測り、今後の活動計画の材料にもなるもってこいの山です。
 昨年も登っていたことで、2年目、3年目のこどもたちからは「なんか今年の方が楽な気がする」「去年より早いね」という声が聞こえてきます。
実際に昨年度よりも早いペースで進んでいます。おそらく知っている道なので迷いなく歩いていることがひとつ。もうひとつは知らない道はすべてが初めて見る景色なのでゆっくりに感じますが、2度目ということで感覚的に早く感じたのだと思います。
 そんな順調な登山でしたが、前日の雨により登山道が川になっている場所が増えてきたため、こどもたちの靴では歩けないと判断し、あえなく中断となってしまいました。残念。それでも4月、5月と忙しく過ごしていた毎日からちょっとだけ一息つけて楽しい時間を過ごせました。
 
 知っているということは「楽」。答えがわかっているから安心して道を進むことができます。逆に言えば知らないことへの挑戦は「大変」ですが、その分学びも多いのです。
 だいだらぼっちは1年間どんなふうに過ごすのかを話し合って決めますが、昨年度楽しかったものをまた今年もやりたいといって繰り返すことが多々あります。中には私が来たばかりに提案した「ナイトハイク(深夜に出発して遠距離を歩く)」のように、いまだに続けているものも。
 「楽しかったことをまたやりたい!」という気持ちは当たり前のことです。繰り返すことで深まるものもありますし、決して悪いことはありません。けれど記憶も企画もフォーマット化されてしまう弊害もあります。自ずと「楽しかった」その面影を再度再現しようとして、「去年の方が楽しかった」と感じてしまったり、実施する方法もある程度フォーマット化されてしまうため、考えなくてはいけないことが少なくなります。
 見たこともない、やったこともない、はじめてのことを実現するには「どんな風にやろう」「どうやったらうまくできるか」という計画を綿密に立てなければなりません。その過程が熱量になります。なにより「考えて創り出す」という経験は、こども自身が自分の道を歩んでいく原体験となります。正解があるように感じてしまう現代社会において、それはとても貴重な体験となりつつあるのではとも感じます。
 
 
 

 

2022年4月
正義の危うさ

 
 8年ぶりに「だいだらぼっち(山村留学)」の現場に戻りました。
 集合して1か月。連日話し合いや田んぼや畑、薪作業に追われる濃密な時間を過ごし、少しずつ現場勘も戻ってきたように感じます。
 このコラムもだいだらぼっちの現場にいるとネタに事欠きません。
 
 18名の暮らしも少しずつリズムも出始め、さらに学校もはじまったことで非日常が日常へと変化します。仲間同士の関係性も緊張感が薄まってきて、距離が近づいていく一方で、お互いへの不満も出てくる様子です。そんなころのある日の連絡(夕食後に行う毎日の話し合い)でこんな意見がありました。

 「宿題をやらない人がいます。やった方がいいと思います」
さらに「自分の好きなことばかりやるのはズルい。宿題をやらないならご飯当番にも入らない方がいい」
 当の本人は「やりたいけど、掃除とか洗濯とかでいっぱいになっちゃう」という声に対して、いっせいに手を挙げる他の小学生たち。「一緒にやろうと声を掛けているのだから一緒にやればいい」「掃除は終えられる時間はいくらでもある」などなど本当に真っ当な、正しいことを突き付けてきます。
 
 しかし正義はややもすると暴力になりえます。まだだいだらぼっちに来て間もないこどもたちは、他の話し合いではまだまだ遠慮して発言も多くありません。にもかかわらずこの宿題の問題が立ち上がったときは意気揚々と手を挙げて意見を主張します。
 「宿題はやるべき」というわかりやすい正義はふりかざしやすいものです。正しいとわかっているから大きな声で相手を責められてしまうのです。
 さらに「ご飯づくりは楽しいこと(好きなこと)」で「宿題はやらなければならないこと」という言葉。朝5:30から起きて、みんなのご飯を作ることの方がよっぽど尊く、生きていくために必要なことは宿題よりもご飯づくりでしょ?とわたしは思います。しかしこれも反論はあるはず。どちらが正しいということではありません。
 どちらにせよ、わかりやすい正義に寄り掛かることは、考えることを奪い、安易に人を攻撃しても良いという雰囲気を作り出してしまうのだと改めて感じました。
 
 昨今のネットでの誹謗中傷などと同じ背景を感じつつも、一方でだいだらぼっちのこどもたちは、自分自身の発言である責任から逃れていないというのは大きな違いです。これから嫌というほど、正解のない答えを問われ続けることになります。その中で、自分自身が発言すること、行動することの中で正義の危うさにきっと気づくと信じています。
 ちなみに2年目、3年目のこどもたちは、「宿題やるやらないは個人のことでしょ。それ以上みんなで責めても意味なくない?」「だいだらぼっちのこどもがひとくくりで言われているなら今の意見もわかるけど、ちょっと言いすぎ」と諫めていました。多様な関りの中で答えが発見できる場こそ大切です。