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事務局長しんのエデュケーションコラム


2020年3月
 コロナウイルス騒動に思う

 まさに今、コロナウイルスの影響で右往左往、しています。先週の木曜日の夜に発表された首相による「公立小中高の全校休校要請」を受け、泰阜村では、翌週の火曜日には休校となるという緊急事態です。これまでの計画や準備、さまざまなことがひっくり返っています。
 
 今回の状況は3.11の原発事故の時とよく似ています。程度は違えど、昨日までのアタリマエの暮らしが簡単に崩壊していく恐怖です。学校からは「こどもはなるべく家にいて、友達と遊ぶことも避けるように」というお知らせが来ています。外で遊ぶことも制限され、いったい何をすればいいのか?コロナウイルス感染者がいない村の中、しかも野外で遊ぶ方がリスクは低いはずだから、外で遊んだっていいのでは。と思いながらも、その自分の行動が「他の人からどう見られるか」と、「誰でもない誰かの目を気にして動く」ようになっている恐怖でもあります。何が正しく、何が間違っているのか、悪意だけでなく善意のデマもたくさん流れ、お互いの行動に干渉したり、価値観のぶつかりが生まれています。
 今、正確な情報が少ない故に「正しく怖がる」ことができません。だから個人の見解が蔓延します。それは対立を生みかねないのです。

 キャンプでもNPOの運営でも、私たちがリスクマネジメントの基本としているのは「事実の確認」です。「危なそう」「やめておいた方がよさそう」という自分自身が持っているリスクのアンテナに従うことも悪いことではありません。野生の勘が重要な場面もありますが、不特定多数のチームや集団の場合は説得力に欠けます。だから「事実」から考えていかなければならないのです。
 「事実」と対になるのは「隠さない」こと。人は感情で動く生き物です。悪い情報であろうとなかろうと、「隠されている」という事実が不信を呼び、みなが同じ方向に向かなくなります。逆にネガティブなこともオープンにすることでチームは強固になります。なぜなら「この課題を乗り越えるか?」を考え、行動に向かうからです。行動はいつでも心をポジティブなものに変化させます。

 国はもっと明確にコロナウイルスの何が最も危険なのかを打ち出してほしいと強く望みますが、暮らしはそれを待ってはくれません。私たちが今できることは、できる限り正確な情報を手に入れること、です。「〇〇らしい」「△△みたいだよ」という誰かが出してくれた正解は、とても耳にやさしく、心地よいものです。自分の価値観や感情に沿った情報は判断を誤らせます。そんなときほど、「なぜそうなるのか?」といった根拠や理由を自分の中で問わなくてはいけません。
 自分の頭で考えて動くこと。最善を尽くすためにできるのは、それだけなのだと感じます。今問われているのは、一人ひとりの「考える力」ではないでしょうか。





2020年1月
 「メンドウ」な時間は人生のムダ?

 他の事業のために用意したもち米が大量に残ってしまいました。スタッフに「欲しい人はどうぞ」と伝えていたのですが、手をあげたのは二人ほど。全部で15kg以上です。途方にくれていたところ、お餅にしたらみんな欲しがるのではないかと考えたスタッフなおみち。冬のキャンプの合間を縫って、スタッフと家族総出で3回転、結果20数キロもの伸し餅ができあがりました。
 またある日。知り合いの方が本格的な餃子の作り方を教えてくれるということで、スタッフや知り合い含め10名ほどで餃子をひたすら作り続ける会をしました。餃子の皮作りのために用意した小麦粉は2kg!結果300個近い餃子を作り、そして食べ続けた会になりました。

 どちらも「楽しそう!」と思う反面、「面倒」と思わなくもありません。でもやってみればやはり「めちゃくちゃ楽しかった!」満足感と、何より「豊かさ」を感じた時間になりました。

 餅つきをするとなれば、前日にもち米を研いで水に浸しておかなければなりませんし、重い臼や杵の準備も必要です。もち米を蒸すとなれば1時間はかかります。準備からお餅になるまで合わせれば20時間ほど掛かっています。一方でお餅も餃子も買ってしまえば時間はかかりません。

 では時間がかかることは無駄なのでしょうか?

 よく大人になると1日、1年が短く感じると言います。その理由は「トキメキがなくなったから」とNHKの某チコちゃんの番組で言っていました。つまり驚きや感動が少なくなっているからです。こどもたちは毎日が初めてのことばかり、だから時間が長く感じます。一方で大人は、はじめてのことも少なくなるし、繰り返しの日常が多くなります。大人でも1日が長く感じることがあるのは、旅行の時やはじめての出来事があったときなのです。
 ミヒャエル・エンデの「モモ」という物語をご存じでしょうか?その中に灰色の男というのが出てきて、人々にいかに自分たちが無駄な時間を過ごしているかと脅し、時間を貯蓄することを説きます。結果、大人たちは誰かとお酒を飲むことも、お話しすることも、鳥を飼うことも止めてしまい、毎日をアクセク働くだけ、しかも節約した時間もどこにいったのかわからなくなってしまうという部分があります。
 現代社会はまさにこれを表しているように感じます。お餅つきも面倒なこと、買ってしまえばすぐに手に入る。しかし、その「面倒」を省いたことで残るはずの時間で、私たちはいったい何をして過ごしているのでしょうか?それは豊かな時間となっているのでしょうか?

 確かに「メンドウ」だった餅つきと餃子づくり。しかしそこにあるのは、うまくできれば自信となり、失敗しても笑ってくれる仲間の存在を知ったり。一緒に作りあげる喜びや、驚きや発見、それらをみんなで共有できたこと。そんなたくさんの感情を生み出してくれました。それが豊かさの正体なのだと思います。
 誰にも等しく与えられた時間。1日が長くなるような出来事を増やしていくことが、もしかしたら豊かさにつながるのかもしれません。






2019年12月
 「本当に必要なもの」を選択する

改元されて令和となった2019年も終わりを迎えます。
年末年始は山賊キャンプのためなかなか落ち着く時間はありませんが、今年こそはと大掃除をしました。我が家で片付けが大変なのは本とCDです。小説、漫画、ビジネス書と500冊以上にCDも300枚以上。これでも実家に随分残してきているのですが、泰阜村に移り住んで早15年。気が付くとどんどんと増え続けています。売ってしまおうと思うと、「また読みたくなるかも、聞きたくなるかも」と、手放すことがなかなかできません。

今は定額制度、いわゆるサブスクが流行っています。特に音楽は月にいくらかのお金を払えば何千万という曲が聞き放題です。また資源の枯渇や海洋プラスチックの問題、SDGsの動きも活発になる中、安易にモノを買うことに抵抗もあります。大掃除のことを考えても、本も音楽もスマホに入れてしまえば、物もなくなり大掃除の苦労もないのであれば、すぐにでもそうしたほうがいいように感じます。
しかしなんとなく、引っかかります。

それは「とりあえず」の感覚への引っかかりかもしれません。「とりあえず取っておく」「とりあえず頼んでおく」「とりあえず…」。写真は最たるもので、無限にとっておけるデータは選別をしなくなり、結果見返すこともなくなります。

「本当に必要なもの」を考えなくても、良いものがいつでも手に入れば、それはそれで素晴らしいことですが、やっぱり、「とことん好き」「めちゃくちゃ好き」「これさえあれば」という心が動いた経験が自分の行動を決めていくように思います。
今は手軽に手に入るが故に、本当に欲しいものはなんなのか?と熟考しなくなった時代のように感じます。選択のハードルが下がると、自分の心の感度も鈍くなること、おおげさかもしれませんが、自分自身に「本当に必要なもの」を聞く機会、自分自身を知る機会も減らしているのではないかと思います。

新しい年を迎えますが、輝かしい未来ばかりではありません。ますます選択することが求められる時代です。日常にある自分が「決定していること」をもっと意識していかなければならないのではないでしょうか。





2019年11月
 布団のたたみ方から考える多様性

ある日、ミーティング前にスタッフ同士でこんな話をしている姿がありました。「前から言いたかったんだけど、宿直の後、布団をちゃんと畳んで!」。

グリーンウッドの主軸事業は山村留学「だいだらぼっち」です。1年間こどもたちが共同生活をしているので、夜は若手スタッフを中心に週に一回ほど宿直に入ります。宿直室のベッドで寝るのですが、毎日違う人が使うので宿直明けの朝はシーツを洗濯し、布団を干し、次の人が気持ちよく使えるように整えて終わるのが当然の配慮というか、暗黙のルールとしてあります。そんな中で最初の言葉。宿直は曜日で当番が決まっているので、自分の前は誰が宿直かも決まっています。これまで積もり積もった不満が爆発したかもしれません。

「気持ちよく使える」というのは個人によって差があります。布団が畳まれていれば良いという人もいれば、たたみ方もちゃんとして欲しい人もいます。むしろなんにも気にしない人も。人の快不快はそれぞれ違うものです。
たくさんの人と一緒に時間と空間を過ごすのは、気を遣います。だいだらぼっちでは4月の終わりくらいに毎年のように「お風呂の話し合い」が勃発します。「男子の後の風呂は汚い」「いや女子も散らかしている!」というものです。これまで家族と暮らしていたこどもたち。誰かがしてくれた後始末がなくなれば、風呂場や脱衣所の様相がどうなるかは容易に想像できます。私自身もだいだらぼっちにやってきたときは、さして考えたこともないようなことに注意されたり、あるいは気になったりということが毎日のようにありました。それはこどもだけでなく、大人同士でも。例えばご飯の食べ方(マヨネーズを大量に使うとか、箸の持ち方)、服装や佇まい、洗濯の頻度や方法、食器の洗い方、靴を揃える揃えない…。枚挙に暇がありません。もともとまったく違う環境で育った個人が集まれば、相容れないこと、あるいは驚かれたりすることばかりです。他人と暮らすというのは、簡単なものではありません。

一方で今は、自分の価値観と合わない集団に入りたがらない人が多くなってきています。SNSなども興味や主義主張によって固まってきます。より自分の価値観を強固にして、それが正しいと勘違いしてしまう傾向にあるように感じます。
また最近は「多様性」を大切にするが故に、「無条件に受け入れられる」ことと勘違いしているような気もします。そもそも価値観が違うのを当然です。「違って当たり前」だから「分かり合おう」というお互いの了解と配慮があって、はじめて他者との関係性ができあがります。お互いに歩み寄ろう、理解しようという前提があってこそです。「違っているのは当然なんだから、受け入れるのも当然」となれば、誰かが苦しい思いをします。

布団を畳む畳まないは「大した問題」ではありません。流してしまってよいと本人も思っていたと思います。それでも、ちゃんと伝えて関係性を作り上げていこうという姿勢にグリーンウッドスタッフの矜持を感じました。「行き違い」を「互いを理解する」、「関係性を豊かにする」チャンスと感じられるか。多様性を大事にするということはこういうことのような気がします。





2019年10月
 自然災害に想う

台風15号、19号と日本列島に甚大な被害を及ぼしました。被災されたみなさまに心よりお見舞い申し上げます。

3.11の震災以降、自然災害がない年はありません。土砂崩れで道が分断され、家が埋まり、氾濫した川の水で家が流されたり、2階にも届くほどの浸水したり。その映像がどれも見慣れてきていることにゾッとします。50年に一度、100年に一度という言葉がこれほど軽く、当たり前のように言われてしまう現代に、私は世界の終わりの「縁(へり)」に立たされているのだと突きつけられている想いがします。

今注目を集めているスウェーデンの高校生グレタさんは「#FridaysForFuture(未来のための金曜日)」という活動で自分の想いを行動に現しました。日本ではそれほど大きな動きにつながりませんでしたが、高校生が自分一人でできる行動することからはじまり、世界でムーブメントを起こしています。そんな彼女のスピーチを聞いた日本の大学生が環境に負荷のかからないコスメを作るワークショップを開催していることがNHKのニュースで取り上げられていました。実は彼女だいだらぼっちの卒業生。もともとパワフルなこどもではありましたが、グレタさんの行動に感動を覚えたとしても、自ら行動につなげられる勇気と力と、よく知っているこどもだけになおさら驚きと尊敬を感じます。

迫り来る課題と、それに対して若い世代が動いている事実。果たして私は何をしているのか?と問うてきます。
言えるのはすべてを解決する魔法のようなことがないということ。ならばできることを探さなければなりません。
グリーンウッドの元スタッフのバンは、生まれ故郷の与論島でゴミ拾い活動を365日やっていました。その時に話していたのは「一人の100歩より、100人の一歩」。誰か特別な人が頑張ることよりも、市井の一人ひとりが当たり前にできることから行動を変えていく方が近道なこともあります。
ヨーロッパでは「地球のために飛行機は乗らない」称して「飛び恥」なる行動も生まれたとのこと。二酸化炭素を大量に吐き出す飛行機ではなく、列車を利用しようという活動です。
地球温暖化、海洋プラスチック、原発を含めたエネルギーの問題。どれもわたしたちのとなりで起きていて他人事ではないものばかりです。悲嘆にくれる暇はありません。「自分ひとりでやっても何も変わらない」と言い訳をすることも無意味です。
すべてを解決する正解がないとなれば、一人一人が今すべきことを考え、そして行動しなければならないのだと強く感じます。





2019年9月
 「割る」と「切る」は同じ意味?

今年の山賊キャンプで気になる言葉がありました。
こどもたちが燃やしやすいようにと、太い木をナタで割っていると、こどもたちは「この木も切って」といいます。そのたびに「割ってでしょ」と訂正するのですが、その子だけではなく、他のこどもも他の組でも同じような言葉が聞かれます。
 「切る」も「割る」も、太い薪を燃やしやすい大きさにするということでは、意味合いとして大きな違いはないのかもしれませんが、「割って」いる私にとっては、明らかに「切って」はいないので、言われるたびに居心地の悪さというか、気持ち悪さを感じてしまいます。
 同様なことは他にもあります。ボランティアの学生がこどもに「お米を洗ってきて」と話したり、小刀で木を「削って」いると「僕にも切り方教えて」。かまどに乗せた飯盒を「焼いて」と言ったり、薪も「焼いて」だったり。
 「洗う」ではなく「研ぐ」だし、「焼く」ではなく「燃やす」「焚く」です。どれも実際にやってみれば、「割る」も「研ぐ」も身体的に理解できるように思います。つまり言葉は「文字」だけで覚えるのではなく、身体を通して体得していくのだと気づかされます。

 言葉は体験と一体化してはじめて生きてきます。例えば、幸福度世界一ともいわれたデンマークでは「ヒュッゲ」というものを大切にしているということで、日本でもたくさんのメディアで取り上げられました。この言葉の意味は、「家族や仲間とゆったりとした時間を過ごす」だそうですが、日本語ではぴったりと訳す言葉はありません。つまり、本当は先に書いた言葉以上の意味が含まれているのです。背景となる文化で暮らしていないと、本質的な意味の理解はできないということだと思います。
同様に「割る」も「切る」も状況を見れば、いわんとしていることは理解できます。しかし話している二人(わたしとこども)の間には、見えない壁があるように思えてなりません。本質的に私の行為や言葉が「理解されていない」と感じてしまうからです。
今のこどもたちの語彙力のなさや、日本語の乱れを憂いているわけではありません。多様性や異文化、コミュニケーションが大切といわれ続けていますが、お互いの言葉を正しく理解するためには、言葉の裏にある意味をすくいとる感覚が大事になってきます。辞書のように言葉の意味をたくさん知っているかどうかよりも、言葉の背景への共感が大切です。そのためには日常の中に言葉を理解する様々な「体験」が必要なのだとつくづく感じます。





2019年8月
 キャンプってなんだ?

 最近はキャンプブームだそうで、アウトドアグッズやウェアもどんどんおしゃれになっています。そのおかげか、敷居も低くなり、多くの方がキャンプを楽しむようになりました。
 つい最近も、近くのキャンプ場がテントを張る隙間もないほど超満員で驚きました。どのテントもグッズも雑誌やネットで見た事のあるカッコいいもので揃えていて、傍で見ていても羨ましいくらいです。同じ「キャンプ」とは言っても、山賊キャンプとは大違いです。
 キャンプの敷居が下がるのは、体験する人が増えることなのでとても素晴らしいことですが、一方でキャンプといいつつ、家にいる快適さを外に持ち出しているだけなのではないかという、モヤモヤしたものも感じます。
 
 さて今年も山賊キャンプが終了しました。時に雨で湿った薪で火おこしに苦労したり、仲間との協力で感動したりと様々なドラマを残しました。
 
 送られてきたアンケートには、「疲れるってこういうこと」と限界を知ったり、「野菜炒めを家でも作る!」と自分ができることを発見したり、「なかなか火がつかず苦労したこと」「お腹が空いても自分たちで準備しないと食べられない」と自分で暮らす苦労を知ったり、「一日中身体を動かせて何をすることができて良かった」「小さい男の子がいたので、別のボートに乗りたかったけど、ついて行って上げた」と新たな自分を発見したり、「星がすごくきれい」「はじめてモグラをみた」とホンモノを見たり、「(親と)離れるのがさみしかった」「文明の利器って便利だなぁ」と当たり前のありがたさを感じたり、「最初はイヤな子だと思っていた子も、最終的には何とも思わなくなった」「出会った方からたくさん刺激を受けた」と仲間や相談員からたくさんのことを教わったり。こども一人ひとりにそれぞれの物語があったことを感じます。
 
 これらは「自分でやった」という実感があったからこそ得られるものです。
 
 キャンプは抗えない自然の中で、限られた物品で暮らすことが醍醐味です。うまくいかないことも、知恵や工夫をして「なんとか」したり、仲間と協力して乗り越えることが楽しさになります。「日常」の消費的な暮らしから、「非日常」での生産的な暮らしをすることで普段のアタリマエの暮らしのありがたさ、あるいは疑問を感じ、これまで出会えなかった自分を知り、新たな価値観を育てることに意味があります。
 決して快適でない山賊キャンプ。だからこそこどもたちは「自ら獲得する実感」を得られます。キャンプブームの裏で、いまどきのキャンプとは真逆の山賊キャンプですが、そこに今の時代に山賊キャンプが必要な理由があるように感じています。





2019年6月
 「かわいい子には旅をさせよ」与論島と泰阜村のこども交流

 山に囲まれた泰阜村に住むこどもたちと、海に囲まれた与論島に住むこどもたちが交流する事業のため、2泊3日で泰阜のこどもたちを与論島に連れて行きました。(そもそもの経緯や交流の様子はぜひブログをご覧ください!

 今回の旅の目的は、自分たちの足もとにある「アタリマエの価値」に気づいてもらいたいというものです。
自分の「アタリマエ」は、その価値に気づくことが難しいもの。例えるならば、日々の健康の大切さも、病気をした時のように比べる対象があってはじめてわかることがあります。
 そこで今回は全く「違う」環境に住む、「同じ」小学生同士が、「日常」を共有することで、発見があるのではないかと考えました。

 泰阜村から参加したこどもたちは海の青さや美しさ、トロピカルな色の魚、山がないこと、また小学校では、授業の仕方や給食、その食べ方まで見るもの全てに驚き、見るもの聞くもの全てに感動していました。しかし、最も心の琴線を触れたのは、与論のこどもたちが一緒に遊びながら何気なく話すことだったようです。
 参加した泰阜村のこどもが感想にこんなことを書いていました。
「(島の子は)自分たちが住んでいる所のことをすごく知っていた。僕がもしこちらに来てもらったとしてもあんなに自分たちの住んでいる所を、胸をはってくわしく説明できないだろうなと思ってすごくはずかしかったし、何か悔しかった」と書いてありました。

 与論のこどもたちが来たら、僕は何を教えられるのだろう?」とふと感じたことが、自分を知ることにつながったのです。最も大切な学びは、「知らないことを知る」知識を増やすことよりも、自分が「知っていることが何かを知り、知らないことがあることを知る」ことなのです。

 自分に「疑問を持つ」ことが学びの原点です。しかし「アタリマエ」であるがゆえ簡単ではありません。しかし場所や環境を変えてみることで促進することがあるのだと思います。
 「かわいい子には旅をさせよ」。親や学校だけでは教えられないことがあります。このことわざが腑に落ちた2泊3日の旅でした。





2019年5月
 遊び相手は宝物

 自然に囲まれた泰阜村で子育てしていても、都会がうらやましく感じることがあります。それは「こどもの数」。つまり、自分の娘息子の友達がいるかいないかです。
 泰阜村もこどもの数は横ばいとなり、他の自治体に比べると安定してきている様子もありますが、とはいえ絶対数が少ない。近所に気軽に遊びに行ける相手がいないと、親が車で送るということもよくあることです。
 こどもが小さい時は、外で遊ぶ場合は親がついていないと難しかったのですが、最近は娘たちも小学生となり、近所に住む一つ年下の女の子たちと頻繁に遊ぶようになりました。
 土日にちょっとでもヒマになると、「行ってきます!」と飛び出していってお家を訪ねていきます。逆に「遊ぼう!」と来ることもよくあります。たまにその子のおじいちゃんの家にまでお邪魔していることもあるようです。
 ヒマになると「お父さん遊んで」と親が遊び相手になるしかなかったのが、同年代の友達と遊べるようになることで、親の都合や気持ちに左右されず遊べるという自由を手に入れています。最近は近所に小学6年生と3年生の兄弟が越してきたので、その子たちも一緒に遊ぶことも。年上のお兄さんお姉さんがいると一気に遊びが拡がっているようで、昼過ぎに遊びに行ってから、夕方の6時くらいまで帰ってこないこともありました。
 周囲に住んでいるのはみんな顔を知っている地域の人たちで、目の片隅にこどもたちが遊んでいる姿を捉えていてくれます。見守られている安心感と、そこに遊び友達がいるとなれば、田舎は本当に豊かな場所に変化してきます。

 都市部ではこどもを取り巻く危険が心配され、一方で地方ではこどもの数が少ないことで、日本社会の中にこどもだけで過ごす「こども社会」が減っています。こどもたちは遊びの中で、コミュニケーションやチャレンジや工夫や失敗を学び取ります。その大切な成長の機会を与えることが思いのほか難しい時代になってきているのを実感します。
 最近見た記事では小学生の約7割が外で遊ばないという調査もあるとのこと。また不登校などの問題も「学校以外の居場所」がないことも課題のひとつとなっているようです。こども同士の遊びの機会を外発的にでも作って行かなければいけない時代になっているということを意味しています。

 親が友達を与えることはできません。だから本当に宝物です。ほんの数人ですが、近所にこどもが増えたことで我が家の土日の過ごし方は変化しました。こどもたちに「遊んで」とせがまれないのも少しさみしいですが、こどもの笑い声が窓越しに聞こえてくることに大きな意味を感じます。





2019年4月
 選挙をきっかけに政治を考える

 先日、統一地方選挙が行われ、泰阜村も村議会議員選挙がありました。定数に達せず、無投票で選挙が終わる地域が増えていく中で、わが泰阜村は定数9に対して10人が立候補され、選挙戦となりました。
 各家庭に配られた立候補者の選挙公報を見ていると、娘が「○○ちゃんのお父さんだ」とか「□□のおじいちゃん」と指をさしています。さすが1600人の村。顔見知りばかりなので、こどもにとっても選挙は身近なものになっています。

 私は泰阜村に来る前は千葉と東京に住んでいました。当時は選挙と言っても、その時だけ掲示されるポスターを見て、顔の印象で投票していたのを思い出します。地域の意思決定をする代表を選ぶ、と言ってもどの人も「全く知らない人」。恥ずかしながら自分とは無関係な世界と感じていましたし、それが自分の暮らしにどう影響を与えるのかも深く考えてもいませんでした。しかし村の村議会は顔見知りなこともありますが、顔が見えるからこその責任も問われますし、住民の声も当然近く届きやすいです。そしてなにより、村の政治に自分の暮らしが関わる実感が違います。多くの小さな町村も同じだと思いますが、全国的に投票率が下がる中で泰阜村は87%を超える理由なのだと思います。

 勉強でも部活でもアルバイトでも仕事でも、その行為の結果が「実感」でき、「より良く」なることで、「関わる力」につながります。いくらがんばって成績を上げても、レギュラーを目指しても、誰も見てくれず何も変わらなかったら、結局は「あきらめ」てしまいます。そういった意味で、小さな自治体に住む人の方が、政治が暮らしに影響を与えているという実感しているのだと思います。
 
 「○○法反対」と言って声をあげても、投票で民意を示しても変わらないという「あきらめ」を体験している社会が、政治を身近に引き寄せ、参画する市民をもう一度育てるための方法を社会全体で考えねば、このまま無投票、議員の成り手不足を助長し、社会全体が沈んでいってしまいます。遊びや学校でも「自分が関わることで変化する場」が少なくなっていること。それが主体者教育から消費者教育となっていっているように感じます。社会を映し出したこの様子を見て、鈍感になってはいけないと強く感じます。








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〒399-1801 長野県下伊那郡泰阜村6342-2  TEL : 0260(25)2851  FAX : 0260(25)2850

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