「村の暮らし」は自然な体験なのだ ~コロナ禍でも暮らしはつづく~

奈良の天理大学のコロナ差別が世をにぎわしている。
いわれなき差別からこどもや若者を守らなくてはならないのは、等しく同じだ。
寮という共同生活も含めて、人ごとにはできない。

「暮らしの学校:だいだらぼっち」の2学期が始まった。
感染リスクを考えれば、薄氷を踏む想いの暮らしが始まる。
が、対策は別として、暮らしの中身は変わらない。
今回は「朝づくり」を紹介する。

朝づくり。
聞きなれない言葉だが、これは「だいだらぼっち」のある長野県南部、伊那谷と呼ばれる地域の慣習をあらわす言葉だ。
その慣習とは「朝飯前のひと仕事」だ。

朝ごはん前の涼しい時間(夏であればの話だが)に、家の周りの掃除や、畑の草むしり、小屋の修繕など、軽い仕事をやってしまうという風習だ。
もちろん、厳寒期もその慣習は続く。
子どもたちが自分の自覚と責任で暮らしをまわすことになると、避けて通れないのが食事作りだが、住んでいる家の掃除も避けて通れない。

自分たちの部屋は自分たちで掃除する。
これは当たり前だし、子どもたちもその理屈はわかるし、しぶしぶではあるが自分の部屋は掃除する(笑)。
しかし、みんなで使う場所はそう簡単にはいかない。
例えば風呂、おかって(厨房)、大広間、トイレ、玄関などだ。

子どもたちは、自分達で掃除しなければならないことは頭ではわかっていても、行動に移すことはしない。
いかに、掃除の楽なところを考えようか必死だ。
あわよくば、やらないで済むうまいアイディアはないか、常に考えている(笑)。
できれば掃除の時間はそこにいたくないのが子ども心だ。

私が宿直に入った時の朝の様子を紹介する(最近はもう宿直に入らなくなったが)

朝5時50分。
朝ごはん作り担当の子どもが一人「寝過ごしちゃった!」と起きてきた。
続いて、もう一人もねぼけまなこでスタスタと起きてくる。
どうやら昨日の夜に段取りをとっていないようだ。
私もいっしょに朝ごはんを作ることにした。
今日期末テストだという中学3年生は早朝から勉強をしていたようだが、起床時間(こどもたちが自分たちで決めた)の6時を過ぎても他のこどもたちはなかなか起きてこない。

6時15分に朝ごはんができあがり、朝ごはん担当のこどもの「朝ごはんできたよー!」という声がだいだらぼっちに響き渡る。
部屋の中から物音がし始め、目をこすりながらぽつりぽつりと部屋から出てきた。
泰阜村では朝飯前の一仕事の風習を「朝づくり」と呼び、だいだらぼっちのこどもたちも朝起きたらまずお風呂やトイレ、玄関など、みんなが使う場所の掃除を分担する。
朝ごはん作りもそのうちの一つなのだ。

その朝づくり、しっかりきれいに掃除できているかと言えば、なかなかできない場合もある。
しかし、「それで意味あるのか」と言うことなかれ。
こどもたちは毎日毎日、仲間同士で仕事をやりくりしながら、自分たちの生活を創りあげているのだ。
よくやっている。。

みんなが朝ごはんを囲むとやっとこどもたちの顔がなごむ。
仲間がつくったごはんを食べるこどもたちは実に満足そうだ。
質の高い満足が、こどもたちを次の行動へと突き動かす。

「行ってきまーす!」と、次々と元気よく出て行くこどもたち。
こどもたちが去った母屋を見渡すと、ため息が出るほど散らかっている。
だいだらぼっちの子どもたちの子どもらしい場面をたっぷり感じる朝なのだ。

こうして暮らしの学校「だいだらぼっち」の1日は始まっていく。

―地域に根ざし暮らしから学ぶ-

厳しい環境の中で生き抜いてきた村の人々の暮らしからこそ、次世代に伝える大事なことを導き出せる。
そう信じてこの実践を続けている。
泰阜村の村人が今なお行っている朝づくりの慣習を、よそ者とはいえ1年間村民となるだいだらぼっちの子どもたちも行う。
全く不自然ではない。
朝作りをやることは、この村では自然な体験なのだ。
そうして暮らしが始まっていく。

代表 辻だいち