「ゆがんだ自己責任」との訣別 ~自律の国づくりに踏み出す時だ~

21世紀に入ったころから、「自立支援」の名のもとに、老人や若者、母子家庭、そして子どもにも「自己責任」と「自立」が強要され、分断を煽るような、いわば新自由主義的な政策が実施されてきた。
とりわけこの8年間の政権は、折に触れその鋭さに磨きをかけている。

文部科学大臣の「身の丈発言」や、財務大臣の老後2千万円の考え方、そしてコロナ感染症対応の数々は、「個人の能力を高めて自立せよ」と迫る政策だ。
要は「自分が強くなる」ことが「自立」の道だという。

しかしどうも腑に落ちない。
長年にわたり山村留学やキャンプを続けてきた私にとっては、個人の能力にスポットをあててそこをいくら強化しても、それは本質的な自立とはいえないのではないか、という想いが半ば確信的につきまとう。

30年間見続けてきた目の前のリアルな子どもの姿は、決して「強い個人」同士が力をあわせる姿ではなかった。
むしろ、想い通りに進まないことに腹を立てたり、自分のことを自分で決められなかったり、仲間のことを思いやれないといった「弱い個人」の姿だ。
そんな「弱い」子どもたちであっても、支え合い、認め合う仲間が「そこに存在する」という安心感のなかで、確かに成長していく場面を見続けてきた。

支えあいながらの田植え。暮らしの学校「だいだらぼっち」のこどもたち。

子どもたちが自分の思いを表現し、しっかりと言葉に発することができるのは、周囲に「支えられている安心感」があるからだ。
「支えられている、認められている、応援されている」ということを、子どもたち自身が実感できる「場」や、実感できる「周りとの関係性」が、今は本当に少ない。
その実感と安心感があれば、周りを支え、認め、応援することを自らできるようになるだろう。

同じことは、子どもだけではなく、およそ生産能力が低いと言われ続けてきた老人や障がい者、貧困家庭や差別を受けるひとびと、ひいては農山漁村そして被災地などにもあてはまる。
皮肉にも、コロナ感染症があぶり出したのは、「歪んだ自己責任論」から弾き飛ばされ、分断され続けてきた階層の存在だ。
新自由主義政策のはざまで息切れしそうなこの階層のひとびとや地域は、もはや単独で「強くなれ」と迫ること自体に限界が来ている。

東日本大震災で被災した福島の子どもたちに、地方創生の号令に疲弊しきった農山漁村の人たちに、国から情報を隠され続ける市井の人たちに、何度もNOを突き付けながら無視され続ける沖縄の人たちに、そしてコロナ感染症で途方に暮れるわれわれ国民に、「もっと強くなれ」と誰が言えるのか。

個人の能力を高めて自立せよ、と迫る政策は、人間や地域を分断し、孤立した存在にする。
そして、およそ「自立」できない個人、集団、地域に「自立」を強要する。

こんな政策とは訣別しよう。

支えあいながら生きる

「『支えあい』の中から滲み出るように生まれる確かな『自立心』」。
それこそが「自律」ではないか。
この国にはそれが欠けている。
より弱いものが犠牲になり続けてきた歴史にピリオドを打ち、「支えあい」による「自律の国づくり」に踏み出す時は、今、これからだ。

代表 辻だいち