関係性の学力 ~今こそ世に問う。本質的な学力とは何なのかを~

近年、「学力の低下」が叫ばれている。国際学力テストの点数の低さが、国力や経済的競争力の危機を憂える議論と結び付けられて、教育の危機を表す指標としてしばしば用いられている。学力論はこれまでさまざまに議論されてきたが、そもそも「学力」はまだ定義されていない。それにもかかわらず、学力テストなど数値化しやすい評価指標だけから論じられていること、そしてそもそも誰のための「学力」か、という視点が欠けたまま議論が展開されていることに大きな疑問を抱く。

学力テストや難関高校・大学合格者数、分数の計算や漢字の書き取りなどのように数量化できるような従来の「学力」は、「個人が所有する学力」と言える。それは、自立して生き、生活を支え、社会を発展させる原動力であることは間違いない。しかし、一生懸命獲得した知識や技能が、他人を蹴落として自分の受験合格や出世のために使われていく場合が圧倒的に多い。どれだけ「個人所有の学力」が高くても、その学力が人を騙したり人を傷つけたり、世の中を壊すために使われるなら意味がない。そこには、所有した知識や技能を他人のためや社会にどのようにいかすのかという視点が欠けている。

長野県下伊那郡泰阜村という人口1600人の小さな山村に、暮らしの学校「だいだらぼっち」という山村留学がある。全国から集う子ども(20名ほど)が、里山の1年間の共同生活を営みつつ村の小中学校へと通う。子どもが食事、や風呂たき、掃除、洗濯など、暮らしの一切を手掛けていく。「困ったときはお互いさま。みんなで解決する」という村の「寄り合い」の風習を、そのままいかした子ども主導の暮らし。ストーブや風呂の燃料はすべて村の里山から間伐した薪。田んぼや畑でお米や野菜を育て基本的な食材は確保し、敷地内の手作りの登り窯で焼いた食器でご飯を食べる。暮らしのあらゆる部分に、村の地域力や森・里山の教育力を生かすことを30年間揺るぎなく続けてきた。

里山の1年間の暮らしを通して、次のような「学力」が培われる。4月にはお風呂の焚き口で何もできなかった子どもが、秋には自分が入った後にお風呂に入る人のために薪をくべる(追い焚き)ことができるようになる。ここで培われた「学力」は、単にお風呂焚き(燃焼)の習熟度が増しただけではなく、他の人を思いやる気持ちを伴う「学力」だ。
来年度参加する子どものために、今年度参加している子どもが森に入る。彼らは、来年の暮らしに必要な薪を、里山から運び出して割ってためる。ここで培われた「学力」も、間伐による環境保全の知識と技術だけではなく、仲間のためを想う長期的な視点を伴った「学力」だ。

テストの点数や有名大学の合格者数で評価されるのが、今の日本の当たり前の学力観だ。人より1点でも高い点を取る、人を押しのけて合格する、そのようなことが当たり前の中で培われた学力は、果たして本質的なものなのか。政府の公文書改ざんや企業の粉飾決算、大学不適切入試などの不正が次々と明るみに出た。それらの当事者たちは、「個人が所有する学力(所有の学力)」の視点からいえば確かに「高学力」の人たちだ。しかし「他者との関係を豊かにする学力(関係性の学力)」の視点からいえば明らかに「低学力」だ。もはや現在の教育の競争システムは「所有の学力」を高める動機付けはできても、他者の役に立つようないわば「関係性の学力」を育てることはできていないのである。

今後ますますグローバル化する時代で生き抜くために必要なチカラは「英語等の語学力」であることは間違いない。しかし今、それに匹敵するチカラが必要になってきているように思えてならない。それが「関係性の学力]だと確信している。
森や里山で展開される教育実践は、一見すると地味である。しかし「所有の学力」の視点からいえば「低学力」かもしれないが、「関係性の学力」の視点からいえば「高学力」の子どもを育て続けてきた。
これからの未来を生きる子どもには、「所有の学力」はもちろん、「関係性の学力」をしっかりと培わせるべきだ。森や里山に、もっともっと子どもたちを誘おうではないか。そこはまさに、本質的な学力を育てることができる最前線なのだから。

※この文章は、日本政策金融公庫から依頼され、同公庫の政策情報誌「AGFフォーラム」に投稿したものに加筆したものです。

代表 辻だいち

コメント

  1. 小玉健也 より:

    はじめまして、突然のコメント失礼いたします。
    北大教育学部出身の小玉と申します。

    現在「グローバル化」「コミュニケーション」「英語」など関係性を主眼とした教育改革はものすごいスピードで公教育でも進んでおりますが、それが教条主義的で概念先行の理想主義でもあることから何か中身の空疎な画一主義的コミュニケーションスタイルの押し付けであるように、小学校の現場にいて思えてなりませんでした。

    皮肉なことに、コミュニケーションが主眼目にされると、今度は「コミュニケーション強者」とそれができない「弱者」とが産まれています。

    もちろん、学校という場において作られたコミュニケーション能力でしかないので、地に足がついたものであるかは検討を要するでしょう。そして、妙な話ですが、いわゆる旧来の学力で優位にたっている子供ほど新しい学力観でのコミュニケーション能力も高い傾向にあります。

    その点、だいち様の実践はもしかすると、地に足の着いた関係性を身をもって体験する実践なのかもしれませんね。

    いわゆる「強者」の子供たちが、周囲を蹴落としているかどうかはともかくとして、偏差値による「エリート」や「コミュニケーションエリート」が他者を「蹴落とす」のは、選抜システム自体の問題であって、個々人の問題でもない気がします。そして、世の中が機能していく以上ある程度選抜と分業システムは必要ではないでしょうか。

    そのうえで、関係性のあたたかさ(それぞれ足りないものを補い合う)という思想が芽生えるといいなあと考えます。その点、キャリア教育で職業体験をしてみたり、様々な現場実践も生まれています。学校教育も捨てたものではないですよ。

    個人的にキャリア官僚の方々とも知り合いがいますが、彼らは職務に熱心であり、人も大切にしています。もちろん例外もいますが、日々徹夜続きで滅私奉公している人々がいることも忘れてはならないでしょう。そして、その地位を獲得するために、受験産業などを媒介して極めて禁欲的にはげんできたことへの敬意を示すことも関係性の一つではないでしょうか。

    さて、私が思うところ、コミュニケーション教育やコミュニケーション社会の実現などが叫ばれるのは、実際そうした地縁や家族的会社制度などを小泉政権などの新自由主義的政策が「ぶっこわした」からでもあり、「こわしたあとの」別の形でのコミュニケーション論を作り上げる狙いがあると思います。それはもしかすると、契約社会に基づいた自他の分離を前提としたやや冷たい関係性の構築につながるのかもしれません。

    私個人的にはそれに反した昭和的なものへの懐古にひたりたい口ですが、世界的な競争主義時代の中ではそれを許さない素地があります。だからこそ、対抗文化としてだいちさんのやられている実践は、今後その希少性から今後需要も高まることとではないでしょうか。

    私は現代日本でのコミュニケーションスタイルの画一的導入に違和感を覚えている口です。厚生労働省の定める社会人としての資質は、学校教育で要求されるコミュニケーションスキルと驚くほど相似しており、経団連等の要求する人材がどのようなものなのか垣間見えます。定型化したコミュニーション以外は許されない窮屈さがそこにはあります。(たとえば、忖度的「主体性」を伸ばす、など)

    そうした人材が必要なのは否定しないのですが、私が思うに、コミュニケーション弱者をも包摂した社会づくりが許されてもいいのではないか、ということがあります。

    学校現場で班活動やディスカッションを行うと、先天的にすぐれた資質をもつ子供はすくすくとその才能を開花させますが、その点に劣等感を抱く子はすみに追いやられたままというケースをよくみます。

    旧来の学力観と新しい学力観は併存してもいいのではないでしょうか?

    いわゆる職人的な口下手でも自分の技術には誇りをもつ人々を尊重するような社会があってしかるべきです。研究者の世界までジェネラリストとして、自分の研究を社会に喧伝する義務が求められる社会は極めて異常に移ります。そこに私は実用的経済科学優先主義を見ています。「役に立つかどうかを宣伝するのは当事者の責任」これだと、基礎研究など地道な作業を行っている人への敬意は薄れ、「理解できないこと」は隅においやられます。結果として、「わかりやすく」て「表層的」なコミュニケーションが流通する一方で、複雑で理解が困難だが「本質」を探求することによって最終的にイノベーションをもたらす基礎研究が軽視されてしまうことになります。今の社会はやたらとイノベーションイノベーションと叫びますが、既存の枠組みの中で「イノベーション」を定義するならば、それは既存の枠組みの外にあるべきイノベーションを生み出さないでしょう。

    その点、だいちさんの実践は、そうしたコミュニケーション弱者との関係性づくりの中に、「ミュニケーションは下手だけれどコミュニケーションがうまい人がそれを補ってくれるような関係づくりを作り上げるのではないかと期待しております。

    みんなちがってみんないい、とは言われますが、言うはやすく行うは難しです。それぞれがそれぞれの役割があって社会全体でそれを認める。そんなことはユートピアでしょうか。

    それはそうと、今の教育には、地に足の着いた「価値観」「思想」性が欠けているような気がしてなりません。昔の儒教的教育では経世済民的価値観があり、江戸末期の武士たちはそうしたノーブレス・オブリージュを元に国を立て直した経緯があると思います。

    それこそ求められる血の通った関係性であり、今後ますます必要性が問われるものかと思います。

    末筆になりますが、今後の活動を期待しております。

    関係性に着目された実践、敬服いたします。