1月17日が「い・い・なの日」になるように ~阪神大震災の被災児童から届いたLINE~

24年前の今日、阪神淡路地域に未曾有の大地震が発生した。
その当時、テレビ、新聞が悲惨な状況や死者数などを競って発表する中、私たちは「私たちに何ができるのか?」と南信州の地で考えた。
SNSなどない時代。
現地の情報なんか全く手に入らず、考えても考えてもよくわからなかった。
だから、まずは被災地に行ってみたのだ。

数回、現地神戸市に足も運び、街の状況を肌で感じた。
平衡感覚を失うほど街がゆがんでいる。
全国から集うボランティアの活発な姿や、ガレキと化した家の前にいけられた花が目に映る中、私たちは考える。
「被災児童の疎開受け入れができるのでは。もしニーズがあるのであれば、私たちの今までの経験と教育の場が役立つことになるのではないか」と。
そんな折り、伊丹市の市民団体と私たちの地元泰阜村当局の両方から「被災児童の長期受け入れができないか」という要請があった。

そして、次ような役割分担ができた。

市民団体が現地状況の調査と募集。
泰阜村行政が財政支援。
私たちNPOグリーンウッドが児童の受け入れ。
今思えばパートナーシップ事業のモデルとも言えるような協力体制ができあがった。

1995年4月から1年間、西宮市の小学4年生女子2人が、暮らしの学校「だいだらぼっち」に元気に参加した。
その夏休みには、2人が通っていた学校のクラスメイト17人を泰阜村行政が夏キャンプに招待し、企画運営を私たちが担った。
続いて1996年4月から2年間、神戸市灘区の小学5年生1人が暮らしの学校「だいだらぼっち」に参加し、1998年3月に泰阜南小学校を卒業した。

暮らしの学校「だいだらぼっち」で、彼らはたくましく育った。
現地で復興に向けて親子が力を合わせるのと同じ位、離れた地でがんばることは大事なことだった。
そう自分に言い聞かせて暮らす姿はいじらしいほどであった。
そしてそんな彼らを受け入れた仲間たち、村の人々がいる。
様々な立場のこどもたちが共同生活する「だいだらぼっち」は、まさに「違いは豊かさ・多様性の共存」をこころに刻む学びの場となったのだ。
そして厳しい自然環境のなかで助け合いながら生きるひとびとの住む泰阜村での生活は、まさに「支えあい・お互い様」を身体に刻む学びの場となった。

その3人ももう33歳。みな社会人である。
そのうちの1人からさきほど届いたLINEである。
長くなるがおつきあいいただきたい。

やっぱり、被害はそんなになかったとはいえ6月の北大阪地震(?)で揺れて、改めて震災の恐怖を感じたから、なんか明日という日がちょっと不安。
1月17日という同じ日に大きな地震が来たらどうしようとか、今の職場でこの席で揺れたらどこで身を守ろうとか、めっちゃ考えてる。

お正月実家帰ってて、お父さんと「南海トラフは絶対来るで。地下におったら逃げ場がない。」という話をしてて、そっちも怖いなと思っている。
今までの「阪神・淡路大震災」の恐怖に上乗せされて、トラックが通る振動とか、たまに後ろをドタバタ走る振動ですら「Σ(゚Д゚)ヒッ」ってなったりしてる(笑)
大阪の地震が来る前はまたちょっと平和ボケ状態だったなと思う反面、こうなったらどうしようという不安も日常それほど感じていなかったので、不安を非常時の備えや心構えでカバー出来ればと思う。

阪神地域はすっかり復興したと聞く。
しかし、復興とは元に戻ることだけではないだろう。
建物や道路はもちろんだが、価値観も再構築されてさらに磨きがかかる。
大震災が私たちに伝えるものは、この価値観の再構築だ。
私たちは「違いは豊かさ・多様性の共存」という価値観を、「支えあい・お互い様」という価値観を、こどもたちと共にもう一度築き上げていこうと強く想う。
そうしてはじめて、復興と言えるのだ。
多くの災害が日本を襲うたび、私たちNPOが担う人づくりの役割もまた磨きがかかる。
阪神・淡路で被災して心も身体も傷ついたこどもが、小学生時代に泰阜村の風土に包まれて育った。

今後、彼らが果たす社会的役割に期待である。
1月17日が「いいなの日」になるように。

代表 辻だいち