NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター
事務局長しんのエデュケーションコラム


2019年3月
 「相手を想う」だいだらぼっちのプレゼント交換

 だいだらぼっちの1年間のスケジュールは全てこどもたちが決定します。それでも毎年行うものもあります。それは「去年楽しかったから、今年もやりたい!」という継続のこどもたちの意見によるもの。その中でも、特に毎年恒例で、みんなが不安で、緊張するけど、最も楽しみにしているイベントがあります。それが「プレゼント交換」です。
 1年の終わりがそろそろ見えてくる頃に、だいだらぼっちのこどもと大人の名前が書かれているクジを引きます。それがプレゼント交換の相手です。その人のために手作りの品を作ってあげるのがプレゼント交換なのです。
 引いた相手が何を喜ぶか、どんなものが好みか、何を欲しがるかを必死になって考えます。しかもだいだらぼっちの物作りは少しレベルが高い。大人もこどもも陶芸は日常的に作っているし、木工で箸はもちろんスプーンやフォーク、机を作ったりイスを作ったりしていたり、染物をやることもあるので、「手作り」はとてもハードルがあがります。そして誰に上げるかは、絶対のヒミツ。みんなに見られないようコソコソしながら、コツコツと作っていきます。
 当日は全員が輪になって、プレゼントをあげる人が相手の名前を呼んで、中央に向い合いプレゼントを渡します。そして今度はもらった人が次の相手を呼んでいくのです。
 今年も素晴らしいプレゼントの数々に本当に感動しました。手作りの品のレベルの高さもそうですが、なによりも相手のことを考えて考えて考え抜いた先に出したものに愛があふれていることに感動します。それは、こどもたちが1年暮らしている中で仲間のことを本当によく見ていると感じるからです。
 これまでプレゼントは欲しいものをもらうことがうれしいことだと思っていました。でもこのプレゼント交換は、もらうことよりもあげることが楽しいのです。きっと喜んでくれる!いや喜ばなかったらどうしよう…。その逡巡の先に、いつも相手の顔が浮かびます。
 何をあげるかを考えるだけでなく、その作っている時間、ずっと「相手を想う」。好きとか嫌いを越えた、愛情の原点がここにはあります。教えたり、伝えたりできないこの経験は必ずこどもたちの「人と信頼して繋がる」未来を育むのだと思います。





2019年2月
 ライブデビュー!

 といっても私がライブに出たわけではありません。某アーティストのライブに家族ではじめて出かけたというだけの話です。
 家族ができてからはなかなか行くことはできなかったライブ。まさか当たると思っていなかった抽選が当たり、家族で出かけるチャンスが巡ってきました。
 しかし、我が家のこどもは10才、6才、3才。上2人は良いとしても、一番下のこどもを大勢(4万人!)が集まるライブ会場に行って、大泣きしたり、飽きて騒いだら大迷惑です。そこで小さな子どもがいる家族連れがライブに参加することはどうなんだろうとグーグル先生で検索してみると、出るわ出るわ。同じような不安を感じている親たちが、質問サイトにたくさん書き込んでいました。
 「大音量は小さな子の耳によくない」「大人の楽しみのためにこどもが犠牲になっている」「高いお金を払って楽しみに来ているのに、隣のこどもが騒いで台無しだったことがあるからやめてほしい」という意見から、逆に「親が楽しんでいればこどもも楽しむ」「運営者側が参加OKとしているならいいんじゃないか?」という意見まで返答は様々です。
 正直、自分が逆の立場で隣にいるこどもが騒ぎはじめたら「勘弁してほしい」と思うと思います。けれど、申込みの注意事項には「4歳以下は席が必要なければ無料」と書いてあるので、参加してもいいのでは…。でももし騒いだら、楽しむどころじゃなくなるし、周りに迷惑をかけてまで…と逡巡しておりました。

 ここでふと、行くべきかどうかの基準がネットになっていたことに、ハッとさせられました。私自身は、感じ方は人それぞれ、ネットの声など気にするべきでないと常々考えています。しかしそれにも関わらず、これまで経験したことのないものについて、ネットを「世間の目」として「検索」してしまう自分を振り返り、「そうなってしまうんだな」と思うのです。

 もちろん社会の中には子連れがそぐわない場もあります。親が楽しむことが全てでもありません。しかし、子連れで満員電車に乗る親に対して厳しい意見を聞くにつけ、我が身を振り返っても、世間の目を気にして外に出られない小さなこどもを抱えた親は都会にはきっとたくさんいるのだと思います

 さてライブ当日。夫婦で「騒ぎ始めたらすぐに出よう」と出口の確認やどう動くかのシュミレーション、その他の約束事を綿密に計画して臨みました。結果、不安をよそにこどもたちも周りに迷惑をかけることもなく、とても楽しんでいて夫婦でホッとしたこと、何より久々のライブに本当に素敵な時間を過ごすことができました。
 隣に座った高校生くらいの女の子二人組にも、「うるさくしたらすぐ出るので」と断りを入れました。すると「気にしないでください」と優しくかえしてくれました。私は救われた思いがしました。こんな風に誰かわからないネットの声でない、自分の生の声をかけられるような世の中になればきっとみんな生きやすくなるのではと、感じずにはいられませんでした。





2019年1月
 こどもの可能性を拡げる「大人」

 今回の冬の山賊キャンプでは「長老コース」というものがありました。これは普段は長老(各キャンプの責任者)であるグリーンウッドスタッフが、グループの相談員として活動するというもの。おおよそ3年に一回ほど行うプレミアムキャンプです。おかげさまで今冬も申込み初日で早速満員となりました。
 さて、その長老コースの長老をわたしが担当しました(ややこしい)。

 勝手知ったるスタッフが各族の相談員としていることは、簡単に言えば時間が有効に使えます。普段であれば全体で話さなければならないことも、各グループで押さえてくれるので「聞かなければいけない話し」が少なくなる分、その時間をもっと有意義なことに使えます。もうひとつは遊びの幅が広がります。例えば今回のキャンプでは、「登山に行きたい!」「染物をしたい!」「女猟師に会いに行きたい!」というやりたいことも、私が連れて行かなくても、「あとはよろしく!」でそれぞれ分かれて実施できます。

 しかし、ただ単にそれが「こどもの可能性をひろげる」というわけではありません。もちろん野外のリスクを良く知り、その対応がわかっているというリスクマネジメントスキルがあってこそということは当然ありますが、大切なことは、「こどもをよく理解している」ということ。つまり、こどもの特性をよく知り、何ができ、何につまずくのか、そして何よりこどもの可能性を信じていることです。
できるとわかっていればチャレンジさせられます。失敗してもそれがマイナスではないことを伝えられます。信じていれば待てるのです。

 ではどうやって「こども」を知って行ったのか?それは山村留学やキャンプ、学童や森のようちえんで常にこどもたちと触れあい暮らしている中で「本当のこどもの姿」を見続ける中で得ていきます。それが他のこどもたちへ還元されていっているのです。
つまりこどもから学んできたということです。こどもの可能性を拡げる大人とは、結局のところこどもから学び取れる「大人」なのではないでしょうか?「大人はいつでも正しい」と思い込んでいたり、「こどもはこうであらねばならない」と頭が固くなりすぎることが逆に自分もこどもも広がる可能性を閉じてしまうように思います。
 こどもは私たち大人の想像を良くも悪くも越えていきます。それは大人の「幅」を拡げてくれるチャンスなのです。楽しむことは難しくても、「おもしろがれる」大人の目を持つこと。それが可能性を拡げるのではないでしょうか。





2018年12月
 「持ち寄りの心」が育てる主体性

 3年前にはじまったやすおか村とグリーンウッドの協働事業に「やすおか暮らしを楽しむ会 てまひま」があります。地域に住む人が、村で暮らすことの豊かさを主体的に感じられること、縦横斜めのつながりを作ることを目的としています。
 これまでお家で使う「みそ作り」や春の「山菜採り」、夏野菜で余ったトマトで「トマトソース作り」、季節やその時々の村の豊かさを感じられることを行ってきました。先日お正月の「伸し餅づくり」を行ったところ、村内外から40人以上が集まりました。地域の方を講師にお年とりのお汁(暮れから正月にかけてのまれる汁のこと。やすおかでは年越しのことを「年とり」と言います)を教えていただき、全員で9升(90合。40kg以上のもち米!!)の餅をつきました。3升を3回、つき終わったときにはかなりの達成感がありました。
 この会が大事にしていることは、「持ち寄りの心」。つまりお客さんではなく、誰もが主体者であるということです。準備や片づけも一緒にやってもらいますし、参加者のこどもたちが遊んでいるときは時には一緒に遊び、時には少し距離をあけて見守りながら、安全を確保しています。
実はグリーンウッドの事業はほとんどがこのようなスタイルです。なぜそんなことをするのかというと、「自分たちが関わり、変化する場が一番楽しい」からです。例えばこどもの工作。誰が作っても同じものができる工作キットを使えば完成度が高いものができます。一方で竹から何かを作るとなると、切ったり割ったりする間に思った通りにならないこともあります。しかし「自分がやった」という実感は愛着や次のチャレンジの意欲と共に、自分次第で変化する楽しさを知り、ひいては「主体者」が育つことにつながります。
 こういったイベントはどうしても主催者が「楽しませよう」「満足して帰ってもらおう」とサービスしすぎることがあります。しかしサービスは更なる要求につながり、自分たちで生み出せないので、他のものを選択するしかありません。

 別の事業で「森のようちえん まめぼっち」があります。こちらは未就学児の6歳までのこどもとその家族が対象です。以前、卒業された参加者の方から「森のようちえんの小学生版を作って!」というリクエストがありました。しかし私たちに新しい事業をする余力はなく、難しいことを伝えました。すると参加された方たちで相談し、年に2回ほどみんなで集まり、森遊びを楽しむ自主的な同窓会企画を立ち上げたのです。
「ない」「物足りない」というのは新たなものを生み出す余白です。そこが楽しめるようになったとき、社会はもっとおもしろくなると思います。サービス過剰な社会の中で、「持ち寄りの心」の活動が、主体者を育て新たな社会を創る一歩になるのだと信じています。





2018年11月
 わたしたちの暮らしが自然に与える影響は?

 最近こんなニュースがありました。「北九州市の水道施設に2頭のイノシシが転落し出られなくなり、その様子を見た住民から救出を求める電話やメールが相次いだことで、一旦捉えてから逃がすということをした」というもの。またこんなニュースも「ダムの水路に落ち込んだ鹿が一か月以上出られなくなり、配合飼料や草を与えていて、シカを山へ返すために来週、箱わなを設置することにした」。一方で「イノシシ殺処分、福岡市内で男性に突進しケガさせる」というニュースも。その後逃げたイノシシは、姿、形が似たイノシシが海を泳いでいたということで、漁船で追いこんで捕獲し、殺処分されたそうです。これらは全て今年あったニュースです。
一方では可哀想と救助され、もう一方では殺される。さらに言えば、日本全国では鹿やイノシシの被害が深刻で、そのために有害駆除としてなんと年間100万頭が処分されています。違和感を覚えるのは私だけではないはずです。

 この問題の原因は、人間の生活様式が変わったことで、鹿やイノシシの生息域が拡がり、その結果個体が増えていることだとも言われています。簡単に言うと、元々人間は家の近くの里山で、食べ物や薪、材料などを得ていて、日常的に山の中に入っていました。しかし燃料が薪から化石燃料や電気に変わったり、物を生み出すよりも消費する生活に代わったことで、山の中に入ることが少なくなってきました。動物たちも本来は人を恐れて、人の気配があるところまで出てこなかったのが、出会うことが減ったことで恐れることがなくなり、今では人家のあるところまで侵入してきています。さらにこれまで大変だった食料を得ることも、田畑であれば簡単に手に入り、結果個体が増えることにつながったというのです。
 
 「可哀想」と一頭助けるのも気持ちはわかりますが、感情ばかりでは問題を見失います。100万頭の内のたかが1頭と、殺していくのが「当たり前」と鈍感になるのも、無責任すぎます。どんな答えが一番良いのか、簡単に答えは出せません。

 大本を辿れば、全てわたしたちの「暮らし方」が自然に大きく影響を与えていることにつながります。「かわいそう」か「仕方ない」か、と自分の価値観の範囲内での正解を求めるのではなく、わたしたちの暮らし方、小さな営みのひとつひとつがこの問題につながり、ひいては自然に大きな影響を与えていることを改めて知るところからはじめなければならないのではないでしょうか。
東京の立川でも「住宅街に鹿が出没」というニュースがありました。ジブリの映画「平成狸合戦ぽんぽこ」では、タヌキたちは人間に追いやられ、住む場所を失っていきましたが、これからは逆の立場になりつつあるのかもと、似たようなニュースが頻発する中で感じています。





2018年10月
 対話の質を高めるには

グリーンウッドが行う講座あるいは講義は「自分で考える」「周りの人と対話で答えを出す」という対話を用いたワークショップを行うことが多くあります。ある講座で参加者に感想を聞いたところ、「同じグループの人が話しを聞いてくれるのはいいが、反論や強い意見がなくて物足りなかった」という声がありました。こちらから「どちらの意見が正しいかという議論ではなく、互いの意見を聞きあう対話で答えを出して」という伝え方が、参加者に思わぬブレーキを踏ませたのかもしれないと反省しておりますが、一方で、対話をする土台に立てていなかったのかもとも感じます。

対話とは自分では気づけなかった答えに、他者の異なる意見を言葉の往来によって深め、発見することで、意見に合意はできなくても、話し合う過程で納得し、互いを理解し合うものだと思います。ただ相手の意見を受け止めるだけでは、会話にしかなりません。

一時的な講座だと、対話の質はそれぞれの参加者が「対話」をしてきたかという経験も必要ですが、それ以上に自分の確固たる「考え」を持っているかが重要になります。対話とは相反する感じもしますが、自分の考え方に自信がないと、相手の意見にうなずくことも反対することもできず対話が深まらないのです。

最近、大学の授業を何コマかまとめてやらせていただく機会がありました。こちらから話すだけではつまらないので、間に「あなたはどう考えるか?」という問いを何度かいれるようにしました。しっかりとした自分の意見を書ける学生と、どこか聞いたことがある、ふわっとした意見を書く学生、両者に大きな溝を感じます。
その溝はどうして生まれているか?私は疑問をなげかける存在が少なくなってきているからではないか。なんとなくの「いいね」を押し続ける社会の雰囲気が疑問を深く掘り出し、小さな疑問を感じるアンテナを鈍らせているように感じています。

 あなたはどう考えるか?に正解はありません。誰でも当たり前にできるはず。しかし
「確たる自分の考え」を言うためには、常に考え、振り返り、自分の心のひっかかりやモヤモヤと向き合って、「自分が何を考えているのか?」という自問が必要なのです。あいさつがてらの「いいね」では、自分自身が「私」の存在に気づけないのです。
相手と意見が違ってもいい。その前提があってこその対話です。ますます困難な問題が増えてくる社会において、対話ができる市民が社会課題を変えていきます。そのためにも、自分の心の揺らぎや不安に耳を傾け、「私はどう考えるか?」の問いの大切さを若者たちに伝えていかなければと感じています。





2018年9月
 風景の話

○運動会のお弁当
だいだらぼっちの運動会は一大イベント。当然、今年の小学生10人の家族も集まる。スタッフも含めると総勢60名分の弁当だ。1週間前から段取りをとって、誰が何を作るか決めておく。毎日ご飯を作るこどもたちも、この日ばかりは特別で、大人たちと中学生で準備する。140個のおにぎりとお稲荷さん、サンドイッチにお重いっぱいのおかずたち。それでも人海戦術とこれまでの経験の蓄積のおかげで朝6時からはじめても1時間ほどで仕上る。
田舎の良さで、児童数70人の小人数と都会とは比べ物にならない広さの校庭のおかげで場所取りの苦労もなし。運営に自分の競技にと常に走り回っている小学生の様子、自分たちのこどもだけでなく、村の子みんなを応援している風景。どれも運動会の楽しみのひとつだ。
お昼ご飯は2枚のブルーシートにひしめき合って、競うように食べる。家族の方も圧倒され、遠慮しながらもその場を楽しんでいる。
これまでの都会の運動会と全く違うこの風景は、こどもたちの心にどんな風に残るんだろう。


○スタッフのこども
ものづくりの先生、ギックとまるちゃんの娘のちーちゃんが帰省してきた。その日はたまたま村のイベントで、子育て世代の若い家族が集まり、農家で余ったトマトでトマトソースを作ろうという企画。ちーちゃんはイタリア料理屋で働いていた料理人であり、今は有機野菜を売るお店で働いていて、しかも今まさに売れ残ったトマトでソースを作って販売しているそう。なんという偶然!
そんなわけで、顔を出してもらってみんなにアドバイス。プロの言葉はやっぱり強い。重い。腑に落ちる。
これからちーちゃんはこども食堂にチャレンジするそうだ。都会の暮らしを見ていると、やっぱり会話のある食卓がないことを痛感するということ。山村の、しかもだいだらぼっちのなんとも多種多様ないろんな人たちに囲まれて暮らしたこども時代と、今の都会の暮らし。どちらもあるから見えるものがあるのだろうなと思う。

○誕生日プレゼント
娘の誕生日プレゼントの買い方に悩んでいる。ネットで買えば、この山村でも翌日には着く。しかもお店で買うより安いし、ポイントまでつく。お得である。
でもなんとなく、せっかくの誕生日プレゼント、安易に手に入る感が、ひっかかる。
お金のやりとりも、買いに行くひとてまもなく、クリックひとつで手に入ることに、なんとなく想いが伝わらないのではとか、大切に使ってくれないのではと感じてしまう。
自分を振り返ると、誕生日に欲しいものが貰えるといううれしさと、覚えているのは買いに行った風景やその時の心の情景がある。
どんな買い方をしても物は変わらない。けれど、手に入れるまでの道のりというか、過程が愛着や心を育てることもあると思う。
たかが誕生日のプレゼント。こどもが苦労をして手に入れるものではないけれど、その途中の風景を大切にしたい。

教え込まなくても、その見ている風景が人を育てることがある。と感じた最近あった出来事を書いてみました。





2018年8月
 キャンプに還ってくるこどもたち

 2018年度の山賊キャンプも全組終了いたしました。キャンプ開催前には中国地方を中心とした豪雨被害、連日35℃を超える酷暑というスタートで、野外で活動することもリスクを感じられるような雰囲気もありましたが、結果としては大きな災害もなく終えられたことにホッとしております。
毎年山賊キャンプには300人ほどのボランティアが参加してくれています。その中にこども時代に山賊キャンプに参加していたという子も少なからずいます。中には8年ぶりの再会や、社会人を期に離れていた子が久しぶりに参加する姿もありました。私もグリーンウッドで働き始めて14年です。たくさんのこどもたちとキャンプをしてきましたが、大人になりボランティアとして再会できるのはなによりもうれしいことです。

 「夏と言えばキャンプ。キャンプと言えば山賊。友達と行くキャンプももちろん楽しいんだけど、やっぱり物足りなく感じる」「いつか戻ってきたいといつも思っていた。あの風景とか雰囲気とか。やっと参加できた」「自分の原点を見つめ直す場」と様々な想いで参加してくれています。

 山賊キャンプはこどもたちにとって原体験=立ち戻る風景となっています。それがどんな風にそれぞれに作用しているかは計り知れませんが、大切な場所になってくれているのはとてもうれしく、誇らしいことです。
 キャンプは大雨のこともあれば、毎日晴れているキャンプもあります。毎日川に入って遊べるキャンプも、まったく川に入れないキャンプも。ごはんづくりに四苦八苦して、何時間もかかるときもあれば、あっという間にできあがることも。グループの団結力がなく、いろいろなことに時間がかかるキャンプもあれば、とても協力して一体感のあることもあります。私たち大人は「いい雰囲気」「協力している」「いっぱい遊んだ」という、ある意味成功したキャンプのイメージを求めてしまいがちです。しかしどんなキャンプでもこどもたちはたくさんのことを得ているのです。
 「ホームシックで泣いていた時、やさしく接してくれた相談員(ボランティア)さんを思い出して参加した」。今年、ボランティアとして参加した相談員の言葉です。

 私たちがすべきことは、それをただ受け止めて共感してあげること。こども自身の「心の動いた体験」は、どんなものもかけがえのない素晴らしいものなのです。
 今年は994名のこどもたちが参加しました。中にはもうキャンプは行きたくないというこどももいるはずです。それでもその数日間の体験が何か心に残ってくれているのであれば、きっといつか花開くこともあると信じています。そしてまた帰って来てくれることを願っております。
 今年もこどもたちに素晴らしい体験の場を提供できたこと、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。






2018年7月
 山賊キャンプは1000人いれば千通りの感じ方

 山賊キャンプがスタートしました。
 都市部から参加したこどもたちは、火をおこして全部自分たちでご飯を作り、冷房もなく、ずっと外で過ごすという暮らしにすくなからずカルチャーショックを受けながらも、その非日常を楽しんで過ごしています。
さて山賊キャンプは食う寝る遊ぶ働くだけのキャンプです。もっと単純に言えば、ご飯を作って食べて、遊ぶだけのキャンプ。28ものコースがありますが、どのキャンプも同じです。しかし初日で900件を超える申込みがあり、相当数のリピーターと、キャンプを終えた後の満足したこどもらしい顔があります。

 それは「同じことをしている」キャンプではありますが、こどもたちにとっては自分たちが関わり「クリエイトされる日常」であるからです。特別なものでなく「ご飯づくり」や何気ない「遊び」といった「暮らし」の中で、自分がいるから、仲間がいるから変化し、より楽しくなるという「実感」があるからです。「こんなに遊んだのはじめて!」「ご飯づくりが大変だったけど、楽しかった!」という言葉の裏には、大げさですが「生きている実感」を得たみなぎるエネルギーを自ら感じているからではないかと思います。

 もうひとつの理由は、生き方も思考も正解があると感じやすい現代社会。それを息苦しく感じるこどもたちもいます。隣の友達と感じていることと同調しなければいけない、正しくあらねばならないと脅迫観念を持ってしまっているこどももいます。
 山賊キャンプは、考えたこと、感じたことを丸ごと受け止めます。川の冷たさに驚いても、星の多さに感動しても、ご飯づくりに失敗しても、川遊びに行かずに工作だけやっても、あるいは友達とケンカした、ケガをしてしまったというマイナスの感情もこどもが感じたことがそうであるなら、それでいいのです。どんな小さなことも、どんな些細なことも共感し、「失敗は失敗ではない」という雰囲気を作るなかで、それぞれのこどもたちが感じたことを感じたままでいいキャンプになっていきます。

 こどもが1000人いれば千通りの感情があります。それを共感してあげることで、こどもたちは成長するための土台となる「自己肯定」をします。その土台を足場に、次のステージへチャレンジできるのです。
 私たちの役割は1000人いれば千通りの感動を思うままに味わう場を保障してあげることに他なりません。それはこどもたちの心と身体の「安全と安心」を守ってあげること。そのためにひと夏がんばっていこうと心を新たにして参ります。





2018年6月
 大人とこども

 先月に引き続き、「大人」の問題です。
 2022年より民法が改正され、成人年齢が20歳から18歳に引き下げられることになりました。中でも18歳から借金可能になることが問題視されています。親権者の同意なく契約できることで、これまで適用されていた「親の同意のない法律行為を取り消せる「未成年者取消権」が行使できなくなり、消費者被害拡大が懸念されるため」ということだそうです。
要は社会経験の少なさから判断力があるかどうかという問題だと思います。しかし18歳と20歳の2年にそれほど差があるのでしょうか?

 大学生と関わる中で最近気になる言葉があります。それは「大人」。「大人にもいろんな人がいることを知れた」「大人はもっと大変だと思った」「大人になったら楽しいことはないのかと思っていたけど…」。どれもグリーンウッドの事業に参加していた大学生が、我々スタッフを「大人」として捉えて話していた言葉です。
 大人かこどもかと言えば当然18歳以上なわけで「大人」だと思うのですが、本人たちは自分たちを「こども」と認識しているということです。
では大人とこどもの明確な線はなんなのでしょう?先に書いた法律的な考えだと、保護者に守られているということです。前述の大学生も言葉の中に自分は安全圏にいるという含みを感じました。「保護者」とは言わなくても、学校や部活など、何かに「守られている」というのが、こども感なのかもしれません。
 ならば大人とは何でしょうか?私は「自分のことを自分で決められる」「行動に責任がとれる」ということだと思います。高校生や二十歳前後の青年たちでも「自分で責任ある行動」をとるスゴイの方はいくらでもいます。そう考えると誰もが一様に、その2年間で学んでステップアップするわけではありません。むしろその2年にはあまり意味がないのではないでしょうか。

 学生たちの発する「大人」と言う言葉には、少なからずネガティブなものを含んでいます。一方で「こども」は責任がないという若干のわがままや勝手さも。大人は「つまらない」「責任がある」「大変」「楽しい時代は終わった」…。「こどもは大人のいうことを聞くもの」。そう感じさせてしまっている今の大人の責任かもしれません。
 「自分で決められる」「行動して責任がとれる」というのは、本当の「自由」です。18歳か20歳かで、「大人」のボーダーを超えるかどうかが重要ではなく、小さなこどもの頃から「大人」に育てていくために、自由を獲得した素敵な大人と出会い、自由を獲得するための教育が必要なのだと感じます。





2018年5月
 素敵な大人の背中はどこへ行った?

 最近テレビや新聞を賑わす出来事を見るにつけ、大人の姿勢としてどうなのか?と疑問を感じる出来事がひとつやふたつではなく次々に起こっています。
 個別の出来事については、詳細は書きませんが、いずれにしても「わが身かわいさ」の保身のためが目立つように思います。
 
 そんな世相を反映してか、山賊キャンプやだいだらぼっちでも、何かトラブルが起きた時、「おれ(だけ)が悪いんじゃない」という言い回しが増えてきているなと感じていました。例えば学校でうまくいかないとき、自分が周りにそう感じさせてしまう行動をとっていても、「周りが自分を理解してくれない」ということや、ケンカして思わず手が出てしまっても、「そうさせたのは相手の責任だ」と、叩いてしまった事実を認めるよりも、非があるのは相手であり、謝ってからでないと自分も謝らないというような姿勢です。
 私は仕事を始めた時に父から「どんなことがあっても誠実な仕事をしていれば結果がついてくる」と言われました。トラブルや困難な状況のときに、取り繕ったり、隠そうとすれば必ずコトが大きくなり、ひいては信頼を失い大きな不利益を被ります。「誠実」な対応とは、間違えたことを素直に謝り、二度と起きないよう事実を見つめて、また歩き出すこと、あるいは自分を必要以上に大きく見せたりしないことだと思います。つまり「ウソをつかない」ことです。

 年齢を重ね、立場やこれまで培った実績が高くなればなるほど、素直に自分の非を認めにくくなります。
論語で「知らざるを知らずと為す是知るなり」と言う言葉があります。「知らないことを知らないと自覚すること。それが本当の知っているということ」と言う意味です。これは人の強さも同じように思います。本当の人としての強さは、自分の弱さを知っていることではないでしょうか?

 間違いを間違いと言わずにごまかしていけば、これからますます増えるであろう社会問題も「私のせいではない」と他人事にしてしまう風潮により、解決されなくなってしまいます。間違ったことをなしにするよりも、間違ったことから学ぶ姿勢こそ、こどもたちに伝えていきたいと思わずにはいられません。





2018年4月
 読書は必要?

 最近のニュースで、1日の読書時間がゼロという大学生が5割を超えたと報じられました。
新聞のコラムでは、「私が知り合いの青年に、「本は読まないの?」と問うと、「〇〇さんはダンスはしないんですか?」と返された。読書は人生の必修科目で、ダンスは選択科目というのは古い感覚なのか」とありました。つまり、趣味と一緒で読書も読んでも読まなくてもいいのでは?と考えている若者が増えているということだそうです。
 
 確かにそう問われると、簡単に答えることが難しく、なんだかモヤモヤする問題。
 私の周りでも、ビジネス書は読むけれど小説は読まないという話しを聞きます。「小説は役に立たないから」だそうです。
 私はというと、こどもの頃から本を読むのが好き、というより暮らしの一部であり、なくてはならないものでした。様々なジャンルからこだわりなく読んだおかげか、本からたくさんのことを教わりました。例えばですが、山崎豊子の小説からはシベリア抑留や中国残留孤児、日系2世が戦時中どのような立場にあったのかを知り、池波正太郎からは江戸の風物や食べ物を知り、沢村耕太郎からは生き方(ちょっとおおげさ)を学びました。こどもの頃読んだ「ズッコケ株式会社」では株式の仕組みを理解することができましたし、歴史ものでは、片側から見れば正義でも、反対側の立場になれば悪にもなる二面性というか様々な角度から物事を捉えることも知りました。
自分では見えないもの、経験できないことを主人公を通じて追体験や共感することで、知識もたくさん得られたと思っていますし、たくさんの人生と出会うことで価値観を育てて、想像力や語彙力も得られたと思っています。
 「読書はしなければならないものか?」と問われれば、はっきりと断じることは臆してしまいますが、読書するだけで(しかも楽しいことで!)得られるものがたくさんあった私からは、もっと読めばいいのにと単純に感じています。
 
 「『わかる』というのは、知識の網の目があるから理解できる」とある本にありました。網の目というのは、個人のこれまでの「経験」です。知識だけ教えられても理解できず、そこにつながる「経験」が理解を導くわけです。1人が経験する物事は人によって違いはあれど限界は必ずあります。その足りない経験を補完してくれるのが読書なのではないのかと思うのです。
なにより時に本は、自分の人生の支えになる出会いを与えてくれます。ぜひ大学生たちにもそんな出会いを味わってほしいと願っています。








NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター
〒399-1801 長野県下伊那郡泰阜村6342-2  TEL : 0260(25)2851  FAX : 0260(25)2850


Copyright c NPO-GreenWood. All rights reserved