NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター
事務局長しんのエデュケーションコラム


2017年3月
 自分の幸せを見つけられる力

 「だいだらぼっちを卒業したら、すごいエリートになると思っていたけど、そうじゃないんですね。ここに来たこどもたちは、世間一般の幸せじゃなくて、自分の幸せを見つけられる人になるんですね!」
 ある事業の参加者の方から言われた言葉です。
 だいだらぼっちでは、自分たちの力で暮らすことを目的に小中学生が共同生活をしています。ご飯づくりから掃除洗濯、薪でお風呂を焚いたり、畑や田んぼを耕し食料を育て、そして学校にも通う。話だけ聞くと、これだけのことができるこどもはとんでもない力を身につけられるように思います。もちろん1年間という長い時間、こどもだけで暮らすことはそんな生易しいものでなく、完璧にできることはなかなかありません。なにより私たち自身も「完璧にできる人」を育てることを目的としていません。
 ではどんな人なのか?それは「自律のヒト」。でもこどもが自律するなんてことはそもそも難しい。一番は、その軸となる「自分の価値観」の“種”をたくさん集める場所だと考えています。
 「世間一般」や「当たり前」という枠から外れても、自分の確固たる軸があれば、自分の幸せを見つけられます。それは「自分勝手」や、誰の意見も聞かない「思い込み」のような硬い価値観ではありません。色んなものを吸収して、自分で育てていく価値観です。
 最近、「周りからどう見られているか」「人生のレールを外れていないか」と、恐れながら生きている青年を見ることがよくあります。自分の価値観を育てる前に、周囲の「価値」を押し付けられ、そこに従うことが「当たり前」と感じている姿に息苦しさを感じます。
 2016年度のだいだらぼっちも先日の引継会を終えて無事に終了しました。15名のこどもたちが卒業し、地元へ帰っていきます。彼らが本当に自分の確固たる価値観に出会うのはまだまだ先のことです。
 「自分の幸せを見つける」。言葉にすれば簡単なことですが、誰かに与えられるものではありません。大切なのは「見つけようと行動すること」。そこにおいて、周囲の価値や当たり前の生き方ではなく、一年間親元を離れ、だいだらぼっちにチャレンジするという「自分で道を決めた」という経験こそが、代えがたい「自分の価値観を手に入れる」大きな一歩になっているのだと感じます。






2017年2月
 多数決

 先日の大学受入での出来事です。テーマは「生み出す暮らしから『学ぶ』を考える」というもの。私たちが普段、幼児や村のこどもの遊び場として利用している元学校林のファイヤープレイス(たき火で煮炊きするカマドと木のベンチがある場所)が老朽化して使いにくくなったため、山にある材を使って、新たに生み出すというのがメインプログラムとなります。対象は将来教員を目指す学生たちです。
 学生主導でデザインや作業方針を決めていたのですが、そのファイヤープレイスの位置を元のままにするか、あるいは別の場所にするかで意見が分かれました。それぞれの利点や求めている姿を聞くと、どちらも一長一短があります。しかし、どちらにしても悪い結果でもなさそうです。私からは「どちらにしても良さそうだというのがみんな意見だと思う。だからこそ多数決ではなくて、全員が納得して最後の答えを出して」と伝えました。
 話し合いの結果、元の位置で作り直すことで全員一致をし、見事なファイヤープレイスができあがりました。時間も体力も限界まで使い、全員が満足した顔でその日の作業を終えました。

 夜の振り返りでの学生の言葉です。「多数決では決めないという言葉が一番おどろきだったし、感動した。」「内に秘めている言葉をもっと素直に言ってもいいんだとわかった」と口ぐちに話していました。
 「意見を言うことは自分の意見がいかに正しく、相手の意見を打ち負かすことだと思っていた。でも「議論」ではなく、「対話」をして意見を聞くと、もっといい答えが見えてきた」とも。
 多数であることは正解でも、より良い道でもないことは多々あります。多数決は時間がかかりません。しかし結論しかないと理解し合う場がないのも事実です。大切なのはなにより互いの言い分を聞いて、理解し合うことなのだと思います。出した答えが「よかった」と感じるかどうかは、答えそのものではなく、そこに至る過程にこそあるのです。将来、教育を志す若者にその本質的な喜びを知ってもらえただけで、この3日間は本当に価値あるものになったと私自身も感動して終えることができました。

 よりわかりやすい答えを求めている今の社会は分断の時代に入っているように感じます。多数派が少数派を切り分けても、その多数派の中で新たな分断は起こります。なぜなら多数決でモノゴトを決めることが文化となっているように、分断することも文化になってしまうからです。そしてその社会で生きるという事は、自分が「分断され、切り捨てられる側」に入る可能性があることを覚悟しなければならないのです。
 「議論」ではなく「対話」。これはいつも学生たちに伝えている言葉です。ある学生は言いました。「議論は自分の意見に集中する。対話は相手の意見を聞こうと努力する」と。ここにこれからの社会のヒントが隠されているように感じます。






2017年1月
 信頼が未来を創る

 だいだらぼっちでは来年度の参加者を決める面接が毎週末行われています。実は継続する子も同じ条件。2年目、3年目に残るためには面接をするのです。
 これは数年前の面接のできごと。2年目の継続を希望する男の子と、面接前になぜ継続したいのかを確認する面談を行いました。聞くと、「今年できなかったことがあるから来年も継続(参加を)したい」ということ。なんとなくぼやっとした話しです。じゃあ、できなかったことはなに?と聞くと「木のスプーンを作りたい」と言います。
 この面談をしたのは1月。残りは2カ月ちかくあります。木のスプーンを作ると言っても、真剣に取り組めば一週間もあれば十分できるもの。来年に引き延ばす理由はありません。そして引き延ばせば、今年同様できない理由は次々と出てきます。そもそも同じ1年の繰り返しにならないためにも、2年目に継続には自分の中のチャレンジが大切になります。
 何より、その彼は周りに流され、仲間の信頼を裏切る行動をすることもしばしばありました。「次はしっかりがんばる」。言葉ではなんとでも言えます。だからこそ、一緒にもう一年がんばろうと私が覚悟を決めるためにも、行動で示してほしいことを伝え、本当に来年継続したいなら本番の面接までにそのスプーンを作ってくることを条件としました。
 いよいよ面接。しかし彼の手にはスプーンの姿はありません。がんばったけど出来なかったといいます。私たちはこどもの様子は毎日見ています。努力してできなかったのであればそれはわかる。時間もあり、工夫すればできないわけではありません。彼はどこかで「ごまかせる」「許してもらえる」という甘さを持っていました。
 先に書いたように、これは覚悟の確認です。自分の弱さを認めず、ごまかしで残ろうという彼の言葉は信頼にはつながりませんでした。

 結果、彼はこちらから与えた再度のチャンスも生かせず2度の面接を落ち、不合格という最後通告を受けました。このときはじめて、ごまかしではどうしようもないことを知ったのです。私も乗り越えてほしいと願っていましたが、これ以上はどうすることもできません。彼自身が決めた行動の結果です。この後どうするのかは本人が決めなくてはならないのです。
 彼が次に出した答えは、「もう一度面接をしてほしい」。
 ラストチャンスの面接に、彼は決してうまくはないけれど、一生懸命作ったスプーンを握っていました。「できたじゃん」の言葉に、彼は涙を流しました。これまで何度も他人や周りの出来事のせいにし、言葉で自分の弱さを覆っていた殻が、破れたように感じました。やっと創り上げた時、自分の弱さを認め、自らの行動で扉を開くことの意味、信頼の意味を知ったのだと思います。
 翌年継続した彼は、これまで不得意で逃げていた風呂焚きも薪割りもチャレンジし続け、見事に乗り越えていました。
 事実をありのまま認められる人は信頼できる。そして未来を創れるのです。

 アメリカ大統領が変わり、世界がこれまでなかったようなことで振り回されています。遠いアメリカのことではありますが、政治家の言動について気になることは日本でも同じです。大切なことは事実を事実として認められるか?それが信頼できるかどうかの第一歩だからです。そしてよりよくするためには、苦しい事実もありのままに認めることからスタートしなければならないのです。しかしどうでしょうか?自分たちの都合の良い方向に進むためには「ウソ」すら事実と言う姿は、信頼とは程遠いものです。
 世界が混迷を極めている今だからこそ、事実をありのままに認め、そこから前に進もうという真のリーダーに政治家になってもらいたいと、あの時の面接の風景が頭に浮かびながら感じています。





2016年12月
 たき火のうた

 先日、ある保育園で自然保育の研修のコーディネーターをしてきました。その園にいる園児たちに自然保育を実施し、保育士の方がその様子を見て勉強するというもの。
 年末も押し迫った寒い時期だったこともあり、火を使ったプログラムをしようということになりました。そこで驚いたことがありました。
 保育園で先生が歌を歌い始めると、たいていこどもたちはそれにつられて歌いはじめるもの。しかしこのとき、こどもたちは全く歌いませんでした。その歌は「たき火」。あの「さざんか さざんかさいた道〜 たき火だ たき火だ 落ち葉焚き〜」という誰もが知っているおなじみの歌です。次に「お正月」の歌を歌った時は、こどもたちは元気に歌っていました。こどもたちは「たき火」の歌を知らなかったのです。
 たいした話しではありません。この歌以外にも、こどもたちが知らない童謡は星の数ほどあるでしょう。この園のこどもたちがたまたま知らなかっただけかもしれません。
 ただ私は、漠然とした不安を感じました。それは、私たちは知らず知らずに暮らしの文化を失っていることに、気づいていないということです。
 
 昔は、私が住んでいた千葉県の柏でも秋から冬にかけては、たき火の風景はありました。この歌の情景も歌を聞けば浮かんできます。しかし、今はどうでしょうか?たき火自体が禁止されていたり、その風景を見ることはなくなってきました。
 同じように全国のイベントで、「もちつき」もノロウイルスのリスクからなくなる気配があります。お餅を食べるだけであれば買えば済みます。最近はホームベーカリーに餅つき機能も付いていたりするので、つきたての餅を食べる事もそんなに難しいことではありません。「もちつき」がなくなっても不便は何にもありません。でも…果たして私たちが求めている生き方はそのようなものなのでしょうか?
 
 「リスク」が最優先されて、中止するという流れにも違和感がありますが、それ以上に、人の手の入ったぬくもりあるものが、私たちの暮らしから一気になくなってしまうことに私は不安を感じます。目に見えない、「雰囲気」という空気に流され、いつの間にか消えゆく文化の中に生きていることを私たちは知らなければなりません。私たちは「自分で決める決定権」を持った一個の自立した人です。この時代に生きている私たちは、自分たちがどのような社会を望んでいるのか?選択することを、徹底的に、そして強く考えて生きていく必要があるのです。
 とんでもないスピードで変化するこの時代の中で、私たちはいったい何を選ぶのか?改めてこの年の瀬に考え直そうと思います。





2016年11月
 だいだらぼっち30周年

 先日、だいだらぼっちの30周年祝賀会が行われ、地域の方、これまで応援してくださった方、OBOG、保護者や元スタッフ、さらにはその家族まで、総勢270名の方が集まりました。
 よく会うOBOGや保護者もいれば、10年ぶり、20年ぶりなんていう方もいて、スタッフも懐かしい再会に涙あり、笑顔ありで会は和やかに進みました。私も、私がだいだらぼっちに来たばかりの時にいたこどもたちと再会し、懐かしい思い出話に花を咲かせながら改めてその時の所在のない、不安な気持ちを思い出したりもしました。参加されていた方はみな、過ごしていた頃の顔に戻っていました。きっとそれぞれの「あの頃」と再会していたのだと思います。

 ある方から「だいだらぼっちの素晴らしいところは、卒業生がみんなバラバラの道を歩いているところだ」と言われました。これまでも、「卒業生はどうなるのか?」「多い職業はあるのか?」と聞かれたことは良くありました。なるほど。あまり考えていませんでしたが、確かに教育とは、「こういう風になれる」という物が多いかもしれません。高校であれば大学の進学率、大学であれば就職率が評価の基準になります。成果や結果が重要なわけです。一方だいだらぼっちは、仲間との暮らしを通して「自分で決めて責任を持つ」ことを大切にしています。その中で価値観を育て、自分自身がどうやって歩むのかを経験を通じて学んでいきます。卒業生がバラバラであるのは当然であるのですが、それが評価されるというのは、新鮮な驚きでもありました。

 今、わたしの周りの若者を見ていると、「こうであらねばならない」という答えに向かって進むことに苦しさを抱え、あえぎながら生きているような姿をよく見ます。教育を受ければ受けるほど、「人生の正解」の道に進んでいき、それが自ら選択できる人生の道を狭めているように思います。しかもそれは「誰か」や「社会の空気」という実体のないものだったりします。
 何が一番正しい生き方なのかなんて、誰も決められません。本当に大切な教育とは、「自分は自由であり、それを決めるのが自分であり、そこに責任がある」と気づけることだと私は思います。
 
 まさに昨日、だいだらぼっちでは、「みんなで決めた暮らしのルールが守られていないし、守ろうとしていない姿もある。これはだいだらぼっちではない!」というこどもからの発言を受けて話し合いがなされていました。今、目の前にある社会に対して、自らよりよくするために関わろうとする姿はまさに自分が人生の主人となり、道を歩もうとしている姿に他ありません。
 30年経って、各方面からお褒めの言葉をいただきます。しかし大切なのは「30年間」という時間ではなく、「30年前からはじめて、変わらず今も続けている」ことです。30周年の祝賀会の数日後にこのような姿がだいだらぼっちにあったことこそ、私は誇らしいなと感じています。改めて地に足をつけて、次の30年に向けてがんばらなければと決意を新たにしました。





2016年10月
 つながる縁

 先日、ある会のコーディネイターを頼まれました。役割は事例発表後の参加者同士の意見交換を促進するというもの。当日、その発表者の方にあいさつしたところ、どこかで会った記憶が…。聞いてみると、かつて我々のキャンプにボランティアで参加していたということでした。なるほどそうだ!と思い出し、懐かしい再会がありました。同じくその会に参加していた方に声を掛けられ、実は40年前に、泰阜村の今は閉校になった分校で先生をされていたとのこと。2度ビックリの出来事でした。
 こんな風に、突然縁がつながり驚くことが、よくあります。
 
 ある保育園に打合せに行った際、「齋藤さん、覚えてますか?」と声を掛けてくれる方が。東京の別の団体で活動していたときに手伝ってくれた方で、結婚されて引っ越し、その保育園にお子さんを出しているということでした。
 またあるフォーラムの実行委員会に出席したときは、どこかで見覚えのある方がいるなと思っていたら、だいだらぼっちOBのお母さんだったり。
 うちの両親がたまたま一時預かったこどもがいて、いろいろ話していると、来週から山賊キャンプに参加するこどもだったり。
 知り合った大学の先生が、お子さんをキャンプに参加させていたり、ゼミの学生がキャンプの10数年まえの参加者だったり…。
 だいだらぼっちでOGと話していたら、なんと同じ学区で、小中学校さらには同じ部活(10年以上後輩ですが)だったとのこと。まさかここで同じ校歌を歌える人に出会えるとは、です。
 こういった出来事、枚挙に暇がありません。初対面だけれど、共通の知り合いがいるということもよくあります。まさにリアルSNS。
 
 これまで30年の歴史があり、だいだらぼっちには約500名の参加者がいて、そこには単純に2倍の保護者がいます。さらに、毎年1000人のこどもと300人のボランティアが参加する山賊キャンプがあると、自ずと濃い薄いは別にして関係してくる人はかなりの数がいて、どこで会っても不思議はないのかもしれません。
 いつどこで誰に見られているかわからないなと、少し恐ろしさも感じますが、これまで培った「メンドウクサイ」を超えた血の通った関係は一生モノだと感じます。つながった縁が仕事になることも、新たな出会いとなり、心強い応援団になることもあるからです。
 この関係性を豊かさと感じるか、しがらみと感じるか。
 今話題の心理学者アドラーは人の悩みは全て対人関係であると言っています。人との関わりが人間のストレスの全てと言うこと。つまりは、その人の感じ方ひとつで、世界は変わるのだと思います。





2016年9月
 幸せを感じる力

 先日、ある大学の合宿を受け入れました。2泊3日のプログラムで、初日に自分たちで選んだ道具だけでキャンプをするというものです。限られたモノの中でどのようにキャンプをするのか、知恵を出すこと、そして仲間との協力が問われます。
 期間中、何度かワークショップを行って、自分の考えていることを話したり、仲間の意見を聞く場を持つのですが、その中で、ある学生が言った言葉が印象的でした。
 「飯盒でごはんがうまく炊けただけで、幸せと感じた!」
 
 「飯盒でおいしく炊けた幸せ」は、失敗をして、そこから学び、成功を仲間と共感したことにあると思います。一言で言えば、面倒くさく、結果がわからないもの。つまり、「手間」です。だいだらぼっちでは、毎日焚く五右衛門風呂は、面倒な分、「うまく焚けるようになった」とか、「少ない薪で焚けた」とか、「無駄な薪を使わなかった」という、小さな成功の積み重ねがあるからこそ、いつやってもおもしろいし、その成功は幸せにつながります。
 一方で、ボタンひとつの暮らしに失敗はありません。だから、当たり前にうまくいくことに、喜びもないのも当然です。そう考えると、現代社会は「幸せ」を感じにくい時代なのかもしれません。

 確かに飯盒でご飯を炊くことは、非日常です。でも、幸せと感じていることは、ほんの些細なことです。本当に幸せに生きている人というのは、幸運の持ち主だったり、大金持ちだったりするわけではありません。結局は、日常の些細なことに幸せを感じられる力を持った人が、幸せになるような気がします。
 現代は、風呂も、洗濯も、ご飯も、ボタンひとつで暮らしの全てができます。そしてお金があれば、大抵の暮らしは事欠きません。しかし、過程にある「手間」こそ、「心」を育む大切な「間」のように感じます。日本の幸福度は年々下がっているといいます。「幸せ」と感じにくい世の中になったというのは、便利になった分、大事なものがスポイルされてきてしまったからなのかもしれません。





2016年8月
 「学び」は繰り返しで身につくもの

 2016年度の山賊キャンプも無事に終えることができました。参加したこどもたち、送り出していただいた保護者のみなさま、そして山賊キャンプに関わる全ての方に、感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 今年は私も久しぶりにベーシックキャンプの長老をしました。今回、私が担当したキャンプでは、高学年のこどもが1,2年生のホームシックのこどもの面倒を見たり、トイレに一緒に行ったり、あるいは包丁の使い方を教えてあげたりという異年齢の関わりがとてもよく目につきました。大学生を中心としたボランティアが相談員として、こどもたちのグループのサポートするのですが、彼らよりも年が近い分、小さなこどもたちは、そのお兄さんお姉さんをとても尊敬し、慕っており、また当たり前のように接している年上のこどもたちの姿を見て、とても清々しい気持ちを持ちました。
 当然と言えば、当然の行動なのかもしれませんが、異年齢の関わりが薄いこどもたちが増えてきた最近は、例えば「おまえばっかりマッチをするのはズルい」など、小さな出来事でも6年生が1年生を本気で怒っている姿を見受けることがままあります。1年生が、つい3,4か月前まで保育園や幼稚園に行っていた、まだまだ幼児といってもいい存在であることは、少し考えればわかるのですが、その「小さい子はできないことがある」という土台となる経験がないと、どう接していいのかわからないのだと思います。
 一方で、先ほどのこどもたちに聞くと、「1年生から山賊キャンプに参加していたから」「(小さな学校に通っていて年下のこどもとよく遊ぶから)当たり前のこと」という答えが返ってきました。
 また1年生を怒っていた高学年のこどもたちも、キャンプの日を重ねるにつれ、自分と年下のこどもたちの違いに気づき、対応を学ぶ姿をこれまでのキャンプでよく見てきました。

 漢字や英単語を覚えるのも、あるいは泳ぎやボールを投げることも、何度も「繰り返す」ことで覚えていきます。こどもたちのコミュニケーションも同じことが言えるのだと思います。「小さい子は出来ないことが多い」ことや、「私も面倒を見てもらったから、今度は自分の番だ」とか、「毎日一緒に遊んでいる年下のこどもたちには丁寧に話さないとわからないんだな」といった、こども同士の遊びを中心としたコミュニケーションの中で培ってきた繰り返しの経験から「理解」し、それを元に「行動」できるようになるのです。
 
 こどもたちは「自由な妨げられない遊び」の中で、人との関係も学びます。しかし、最近は、キャンプに来たこどもから「来年は受験だからキャンプには来られない」という言葉を聞くことがあります。受験をする年代のこどもたちこそ、年下のこどもと一緒に過ごすことで、自分の役割に気づいたり、新たな自分を発見していく成長の機会にもなります。 
 キャンプといっても1年のうちの数日です。ぜひ高学年になっても、山賊キャンプに帰ってきてくれればなあと、たくさんのこどもたちの歓声をキャンプ場で聞きながら考えていました。





2016年7月
 なぜこどもたちに「キャンプ」なのか?

 今年も山賊キャンプがはじまります。7/22からスタートして全26組、1000人のこどもたちが参加します。ケガやトラブルの無い安全なキャンプが行えるよう、今はそれぞれのスタッフが準備を怠りなく進めています。
 さて私たちの団体は「グリーンウッド自然体験教育センター」といいます。教育をミッションとした団体である私たちは、なぜ、キャンプという手法を選んでいるのでしょうか?実はキャンプにはこどもを成長させる場がたくさんあるからです。
 
 まずは思い切り体を動かして遊べる自然があること。デコボコの道や、川の流れは、こどもたちの身体を鍛えます。自然はこどもたちの最高の遊び場となり、こどもたちの工夫や知恵を育て、いろいろな生き物たちや様々な表情を見せる自然は、こどもの感性を育てます。
 一見マイナスに見える夜の暗さも大切です。何も見えない暗闇は想像力をかきたて、夜に活動する動物たちの声や動きを感じることもあります。星空の美しさや月の明るさを知ることも。また不安になったときに、そばに寄り添う仲間の存在にも気づけます。
 キャンプのトラブルも重要な要素になります。うまくいかないご飯づくりや、仲間とのケンカ、親がいない生活や、天候に左右される活動は、仲間とのつながりや普段意識しない「当たり前の暮らし」のありがたさを強く意識させます。
 
 しかし、最もこどもを成長させるのは、「限られたモノや環境の中で暮らす」というシンプルな状況と「自分たちの力で暮らさなければならない必然」です。
 そもそも「生きる」とは「暮らす」こと。暮らしを豊かにすることが、生きる充実につながります。私たちは暮らすために生きているはずなのに、いつしか「豊かさ」とは「モノを買える」ことになり、日々のそのほとんどが消費に変わってしまっています。
 本来の「充足」した暮らしに目が向かず、「暮らし」そのものがないがしろになっているように感じます。しかも「なくても困らないモノ」で身の回りを埋めることに腐心し、しかもそれに人生を縛られていることもあるのではないでしょうか。
 
 キャンプのシンプルな暮らしは、「私たちが本当に必要なもの」を教えてくれます。私たちが生きる上で、豊かさと幸せを感じさせてくれるものは、いったい何か?キャンプの経験がこどもたちのねっこに浸透し、これから生きる上での価値観と育っていくのです。
 
 この夏、こどもたちは何を「本当に必要なもの」として持って帰るのでしょうか?今年もたくさんのそんなお土産を持って帰れるよう、精いっぱいこどもたちを応援していきます。みなさまご協力をお願いいたします。





2016年6月
 新たな挑戦「まめぼっち」

 今年から、グリーンウッドの森のようちえんは「まめぼっち」という名前に生まれ変わりました。なんだか変わった名前ですが、ちゃんと、理由があります。「だいだらぼっち」の小さい版、つまり「まめ」という意味と、ここでのこどもたちの体験が小さな「たね(=まめ)」となって、心に植えられることを願ってつけたのです。
 「だいだらぼっち」の小さい版と書きましたが、何がだいだらぼっちと同じなのでしょう?それはだいだらぼっちはこどもを真ん中に、親やスタッフ、地域が輪となって、こどもたちが自由に育つことを見守り、その輪となる人たち同士も交流し、響きあい、それが豊かな場になることを、「まめぼっち」でも体現したいと考えました。簡単に言えば、一昔前の地域の姿です。こどもたちは自由に遊び、それを緩やかな立場で大人が見守っている。時には叱ることもあれば、褒めることもある。遊びを教えてあげたり、知恵を授けたり、そんな形で参加者全員が主体者となって関わりあえればとても素晴らしい場になると考えたからです。

 この「まめぼっち」は、年間10回程度の土日に行うイベントです。当初は短い時間の中で、知らない家族が集まり、場を創るということに不安もありました。しかし、ふたを開けてみれば、参加した保護者の方は、自分のこどもでないこどもと一緒に遊んだり、ちょっと1人でどこかに行きそうだと声を掛けたり、ついて行ってあげたり、ご飯の作り方を教えてあげたりと、積極的に関わってくれていました。
 みんなが主役となる場になると、どんなことが起こるか誰もわかりません。先日のまめぼっちのキャンプでは、夜どうしてもチャンバラをしたいというこどもの意見に、ある親御さんが「危ないから他の方法を考えて」と伝えたところ、こどもたちは懐中電灯をライトセーバー(スターウォーズに出てくる剣)に見立てて、相当盛り上がっていました。またお鍋でお米を炊いたのですが、その見極めを〇〇のお母さんに見てもらえば大丈夫!と、役割や信頼といった、タテヨコナナメの関係性と価値観が生まれます。
 真におもしろいものというのは、「与えられる」ものにはなく、「作り出す」ものにこそあるのだと確信した姿でした。

 こどもを取り巻く環境が貧しくなっている中、こういった場を意図的に作り出さないとならないのは社会の大きな課題です。しかし、「豊かな場」がどんなものか知る経験がなければ、求めることもありません。
 「作り出す」ことに正解はありません。一方与えられるものは、はじめから「答え」が用意されています。わたしたちがこの泰阜村で提供したいのは、「分かりきった答えを知る」=「正解の教育」ではなく、「みんなで創りだす」=「より良い答えを作り出し、それを認め合うこと」、つまり社会の一員となる体験です。それこそがこれからの「教育」なのではと感じております。





2016年5月
 こどもの成長と一般論

 わたしには2年生の長女を筆頭に、3歳の次女と、9か月の息子がいます。一番下の息子は最近、やっとうつ伏せから方向転換ができるようになり、ちょっと移動できるかな?くらいになりました。先日、だいだらぼっちの見学にお子さんを連れて来訪された方がいたのですが、その子は我が子と2週間違いにも関わらず、既に伝い歩きをしていました。
もしこれが一人目だったら、とても不安だったろうなと思います。

 特に赤ん坊の時は、他のこどもとどうしても比べてしまいます。「わが子の成長を願う」という想いは、「そろそろ〇〇ができるはず」という答えあわせになることもあります。そもそも、こどもも同じ個性はなく、できること、興味も違い、成長もそれぞれです。しかし、はじめての子育てでは、「他の子と違う」ことが不安につながってしまいます。

 幸い、私たち夫婦が働く職場には、スタッフやだいだらぼっち(山村留学)にこどもを出しているお父さん、お母さんとたくさんの子育ての先輩がいます。相談すれば、「大丈夫」「そんなものだよ」「うちもそうだった」「うちはもっと大変だった!」とこれまでの経験を話してくれたり、悩みを聞いてくれたりするので、私たちも安心できます。
 
 受験や習い事をしたり、ゲームやおもちゃを買い与えたりすることが、「お友達みんな…」「ほとんどの家が…」という理由であるのは、これも親のひとつの「安心」のためのものです。しかし、こういった「一般的」と言われる理由でこどもの暮らしを左右するとしたら、とても不幸です。こどもたちはみな一個の立派な「人」です。必要なものは自分で選びとれます。欲しいおもちゃを手に入れるために、少しずつハイハイを覚えるのと同じように、必要と思えば自ら成長していくものだと思いますし、それが真の成長であるはずです。だからこそ、「一般的」「普通」「当たり前」という言葉が、こどもたちを苦しめることがないようにしなければと、ひとりの親としても強く思います。
 
 最近、どんな教育本があるのだろうと調べたのですが、おもしろいのは、まったく逆の説を唱える本が結構あること。一方では「たくさんほめるべし!」とあっても、もう一方では「褒めない子育て」を推奨していたり、「親の習慣でこどもは変わる」という一方で、「親はがんばらないほうがいい」とも。
教育となると、誰でも一家言持っているもの。だからこそ、あんまり信じきらなくてもいいように思うのです。

 子育てに正解はありません。「アドバイス」や「正しい答え」を出してくれる人よりも、話しを聞きあえる人がそばにいることが私たちにとって一番の安心でした。親が安心できるコミュニティーにいることが、こどもたちの健やかな成長につながるような気がします。





2016年4月
 18歳からの選挙権。社会に関わる体験が重要だ。

 今年から選挙権が18歳から与えられます。選挙権は、社会に関わるという非常にわかりやすく、具体的な仕組みです。
 そんなわけで、ニュースや新聞では、全国あちこちで選挙の勉強をしている話題があがっています。大学生が授業を作って高校生に教えるなど、おもしろそうなものもたくさんあり、自分自身の二十歳のころと比べても、今の若者はスゴイなと素直に思います。
 
 一方で、〇〇をするために、△△を学ぶ。という現代の流れに違和感もあります。必要な知識を学ぶのに、授業や講義など時間を設けることは必要ですが、この問題で一番こどもたちが得なければならないものは、「自分が社会に関わっているという実感」ではないでしょうか。
 
 泰阜村に来て12年、村民として社会に関わる実感は全く違います。例えば、年に数回の道路愛護と呼ばれる地域の道路掃除や空き缶拾い、村民運動会や学校行事、村民一人一人が、地域の何かしらかの役を持ち、自治に携わっています。自分たちの村がどうなるか?ということに非常に敏感だし、それに対する意見や行動もあります。
 村の中心は村民である意識を強く感じます。
 人口1700人の小さな村だからできることかもしれませんが、実感できる単位というのは重要です。

 今年も19名のこどもたちが、「暮らしの学校だいだらぼっち」に集まり、1年間の暮らしがスタートしました。ここでは1年間、話し合いをして物事を決めていきます。明日のご飯当番から部屋割り、そして1年間のスケジュールやもめごとまで。
 当然ですが、親元を離れて暮らす経験もこどもたちにとって初めてです。親の言葉や目のないことは、こどもたちにとって解放感ももしかしたらあるかもしれませんが、それよりも「ひとり」である不安の方が大きいと思います。
 ひとりであるからこそ「自分が声をあげ、行動しなければ何も動かない」ことを学びます。小さな社会と関わる経験をしていくのです。
 
 自分以外の他人がいれば、そこは「社会」です。18歳になり、知識として「社会に関わる」ことを学んでも、それを実行するための経験値がなければ、「行動」に移すことは難しいものです。こどもの頃からの当たり前にある経験がものを言うのではないでしょうか。
 
 こどもたちが関わる最初の社会は、家族、学校です。そこに「自分が関わる」実感があるかないか、それが18歳の選挙権に大きな違いを生むように思います。








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