NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター
事務局長しんのエデュケーションコラム


2016年2月
 社会の仕組みに疑問を持つ想像力

 廃棄食品として処理されるはずのものが流通されたという事件が、ニュースを賑わせていました。「食」は私たちの命や健康に直結する問題であるにも関わらず、食品汚染、偽装、異物混入など、毎年問題が取りざたされ、またかと暗い気持ちにもなります。関連のニュースでは、年間2800万トンの食品が廃棄され、世界では生産される食糧の3分の1は廃棄物となっているという情報もあり、さらに暗鬱とさせられます。
 廃棄される理由はさまざまだと思うのですが、それだけの量が廃棄されている社会の仕組みを、私たちはもう一度考え直さなければなりません。今回は加工中に異物が入ったということですが、ここ数年、食品にまつわる問題が大きくなり、企業もますます厳しい目にさらされ、その判断によっては企業が大きなリスクを背負わなければならないというこれまでの事実が、より多くの廃棄につながっているのは否めないようにも思います。
 これは企業の問題だけでなく、「世間」という目のひとつである、私たち一人ひとりの問題でもあります。
 
 先日、将来先生を目指す大学生と廃鶏(卵を産まなくなった鶏)を絞めて食べるという活動を行いました。卵を産まなくなったとはいえ、生きている命をいただくのは学生たちにとっても初めてで、いろいろなことを感じたようで、その中で「肉を食べるということは、命をいただいている。という実感がこれまでなかった」という話が出てきました。
 命が肉となってパックに入った瞬間に消費されるものに変わり、「おいしい、まずい、古い、新しい」と私たちの価値観も変わります。目の前の肉がどのように生まれ、育ち、誰が肉にしてここまで来たのかなど考えることもありません。でも大学生たちは、自分の手で命を食べ物に変えることで、「普段、当たり前に見える暮らし」がいかに何も見ていなかったことなのか気づけたとのだと思います。
 
 暮らしの大半が「消費」という行動で行われる現代社会は、どんどんと単純化されています。モノゴトの単純化は想像する余地を奪います。「なぜ電気がいつでも通っているのか」、「ゴミ箱の先はどこにつながるのか」、「ネットで買った商品がなぜ明日には届くのか」・・・不思議に思わなくても日々は巡る。このことの危険性が、じわじわと社会に事件事故として顕在化されているのではないでしょうか?
 
 今、わたしたちに必要なのは「想像力」です。しかし、学校で想像することは教えてくれません。本来、遊びの中、暮らしの中で、「好奇心」から生まれ出るもの。こども時間のその余地がないことがもっとも大きな問題のようにも感じます。





2016年1月
 新年あけましておめでとうございます

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 毎年のことですが、わたしたちグリーンウッドでは、仕事納めと仕事はじめが同時に行われます。というのも年を越すキャンプが行われており、除夜の鐘をつきに行くのが恒例の行事なので、まさに年を越す瞬間が「仕事納め」であり、「仕事はじめ」なのです。
 さて毎年発表される、今年の漢字ですが、昨年は「安」でした。いうまでもなく「安保」法制や、テロや中東の危機などの「安全」も含まれるのだと思います。
 安全のことがことさらに叫ばれるということは、逆に言えば、これまで「当たり前」であった、日常が崩れてきたということではないでしょうか?
 安全だけでなく、こどもが公園で大きな声で遊ぶことが制限されたり、地方では、産婦人科が減り、その土地でこどもを産むことができなくなったり、あるいは終の棲家も選べないといった、安全よりももっと手前にある、人が「当たり前」に生きることも難しくなってきているように感じます。
 
 これを書いている外では、こどもたちの元気な声がこだましています。31日はみんなでお餅をつき、おせち料理を作り、参加したこども、相談員、グリーンウッドのスタッフ勢揃いでパーティをしました。年越しの瞬間はお寺に行って除夜の鐘をつきに出かけています。元日はわたしたちの暮らす田本地区の恒例のマラソン大会に参加させてもらい、大いに盛り上がりました。これが山賊キャンプのお年とりコースの毎年続いている風景です。
 「いつものおなじみ」の風景は、ワンパターンで退屈にも感じますが、安心感もあります。無事に1年を締めくくり、新たな1年をはじめられる。この区切りをつけること、毎年同じであることがお正月に意味があり、だからこそこの当たり前を続けていくことに大切なのだと思います。

 グリーンウッドは、「暮らしの学校だいだらぼっち」開所から31年目を迎えます。こども本来の力を伸ばすためのオルタナティブスクールとして始まり、キャンプや大学との連携など教育活動を続けてきました。一方で「誰もが安心できる社会」をVISIONとして掲げている中で、今の社会の動きを見ながら、新たな役割が求められてくるように感じます。
 まずは足もとを固めながら進まなければなりません。当たり前を当たり前にできる社会を創り上げるために、31年目もスタッフ一同がんばっていきます。今年も応援をよろしくお願いいたします。





2015年12月
 差出人不明の手紙

 先日、こんな手紙が私たちのもとに届きました。
 宛名は「信州こども山賊キャンプ関係者のみなさまへ」、差出人には「こども山賊キャンプ参加者」とだけあり、名前も住所も書いてありません。
 「山賊キャンプのことでどうしてもお礼が言いたくて手紙を書きました。」という書き出しで始まるこの手紙には、小学生のころ3年間キャンプに参加し、その時に出会った友達と中学生まで文通をしてきて、その後音信不通になったが、また5年ぶりくらいに「久しぶり、元気?」と手紙が届いたということ。山賊キャンプが人との出会いの大切さに気づかせてくれたと書かれていました。
 
 名前のないこの手紙には、どうしても伝えたいという溢れる想いがにじみ出ていました。
 10年前に参加したキャンプを今でも覚えていて、感謝の手紙を書くなど、なかなかできるものではありません。
 キャンプの帰り際、楽しかった!また来たい!とこどもたちは言います。でもその言葉の裏側にあるこどもたちが持ち帰ったものがなにかはわかりません。この手紙は、私たちスタッフにとってこれ以上ないうれしい贈り物でした。

 こどもの時にキャンプに参加した方(もう30歳を超えている)と、以前に話をする機会がありました。小学生の時に長老が話した言葉を、大人になった今でもよく覚えていて、「この人はスゴイ人だ!」と感動したという話を聞きました。たった3泊4日のつながりですが、こどもにとっては日常体験。きっと瞬間の出来事や、かけられた言葉を一生覚えていることもたくさんあるのだと思います。
 いよいよ来週から冬の山賊キャンプがはじまります。
 いただいた手紙を活力に、もっともっとがんばろうと思います。応援よろしくお願いいたします。





2015年11月
 九州出張雑感

 ひと月に一コラムを目標に書いておりますが、10月は書けないまま過ぎてしまいました。ひと月くらい空いても…と思うこともありますが、意外なところで「拝見しています」という声も聴かれますので、やはりがんばって書いていかねば!と心を新たに思っております。
 さて10月に書けなかったのは、月の半分出張に行っていたというのもあります。九州に出張に行き、熊本、福岡、佐賀、鹿児島、長崎、大分と結果、宮崎以外の九州を周ってきました。出張の目的は長くなるので省きますが、やはり仕事とは言っても、なかなか来られない九州です。その土地の味や文化を味わえる楽しみがあります。
 今回の出張で一番おもしろい!と思ったのは佐賀県でした。しかし、佐賀駅に到着しての第一印象は、「これが県庁所在地の駅?」ということ。それほどこじんまりとした駅でした。町にも高いビルもなく、どこか人気の少なさを感じさせます。
 しかし、第二次世界大戦の空襲で焼かれなかった街並みを活かしつつ、これまで培った独自の文化を大切にし、ワカモノのチャレンジ精神を応援する気風や、地域に住む人目線の町づくりは、住みやすそうであること、そしてこれから『町が育っていく』という希望を感じました。それは「町のらしさ」や「住民本位」を視点にして見つめ直し、創り上げた結果なのだと思います。
 
 地方創生が叫ばれ、地域に注目が集まってきています。転じて、地方都市を見てみると、どこも同じコンビニ、コーヒーチェーン、家電量販店に大型スーパーと、似たような街並みが続いている現状。「お金」がどう消費され、生み出されるかという視点から、画一的な答えを出し、結果、「どこにでもある」ものになっているようにも感じます。
 
 「ありのままで」と歌が流行りましたが、「ありのまま」でいることが良いことではないように思います。それは「自己愛」「自己正当化」であって、本来持っている本物の良さが出てくることはないからです。
 これからの時代に必要なことは、自分自身をとことん見つめ直すことだと思います。それは痛みが伴うものでもあります。しかしそこを見ていかないと本当の成長はあり得ません。人も町も「私とは何か」ということをとことん考え、時に周りにいる人と話し、自分自身を知っていく。そうやって自分を知り、再構築していくことが大切なのではないか?ということを考えた九州出張でした。





2015年9月
 山賊キャンプ全組終了 自由を手に入れるこどもたち

 全1108名のこどもと312名のボランティアスタッフが参加した2015年度の山賊キャンプは、8/31に終了しました。参加したこどもたち、送り出していただいた保護者のみなさま、そして支えていただいたボランティアのみなさま本当にありがとうございました。

 保護者の方からも次々とアンケートが届いております。その中にこんな言葉がありました。「山賊は遊びじゃなくて働きに行ったキャンプだったとのこと。でもなぜか遊び主体のキャンプよりずっと楽しかったそうです。」
いったいなぜでしょうか?

 山賊キャンプは苦労の連続です。例えば食事づくり。これまで使ったことのない包丁やマッチを使い、料理もメニューを決める所から話し合います。しかも「できあがったらいただきます」なので、自分たちが頑張らなければ、食べることもできません。
 そんなご飯づくりでもこんなアンケートもありました。
 「包丁をはじめてつかった。火起こしをした。と目をキラキラさせて話してくれた」「帰宅日の夕食をすべて作ってくれた。料理もしたことがないのに!」「キャンプ中に何度も作ったらしい野菜炒めを作ってくれた」

 山賊キャンプの食材は9割が地元泰阜産です。採れたての野菜をこどもたちが食べて、「いつも家では食べたがらない野菜を丸ごと食べたと聞いてびっくり」という声も。

 田舎暮らしの中で、「にわとりが本当に朝早くから鳴くこと」に驚いたり、「星空がびっくりするほどきれい!」と感動したり。

 また工作でも、「木を削ってスプーンを作った」「竹林で竹をとれたのも楽しかった」と語っているこどももいました。

 現代社会において、「遊び」は消費です。こどもたちは「おもしろそうなもの」を選択し、批評し、また選択します。いうなればその選択することしか主体性を発揮する場面はありません。
 一方で山賊キャンプは、材料の竹を切ることの楽しさや、包丁、マッチを使って、自分たちで生み出すことの楽しさを知り、あるいは当たり前にある自然の中に、「満天の星空」や「川のきれいさ」に価値があることを知っていきます。
 また「こどもの話しで印象的だったのは、ガスコンロは火加減の調整が楽だし、あおがなくていい。家では楽に生活できるという話し」のように、コントロールできないことを知恵と工夫でなんとか乗り越える「楽しさ」にも気づいたのです。

 「TVのことを考える暇もないほど遊んで働いて動いて楽しかった」
 「楽しすぎて家族のこと以外思い出さなかった(TV,おかしなど)」
とこどもたちは語ります。

 山賊キャンプは、いうなれば「不自由」な暮らしです。しかし普段の暮らしとは真逆の中に、こどもたちの可能性を引き出す場面がたくさんあります。可能性とは「成長」です。「成長」すれば、できることが増えます。つまりこどもたちはできることを増やし、どんどん「自由」の幅を広げていくことに喜びを感じていったのです。
 「親に頼ることなく、自分の力で新しいことにたくさんチャレンジができ、自信になったことが表情と話し方で伝わってきました。」
 どのアンケートからもあふれ出ているのは、「自分でできた!」という成長の喜びなのです。

 たくさんのこどもたちの歓声と歌声が響いた左京川キャンプ場も、今は元の静かな場所へと戻りました。キャンプ中は、上記のような様々な応援や感想とともに、厳しいご意見もいただきました。改めてふりかえり、今年のキャンプが終わったことに安住せず、次のキャンプに向けて、あるいは今後のグリーンウッドの全ての活動に向けて、スタッフ一同、精一杯頑張って参ります。今後ともよろしくお願いいたします。





2015年8月
 「おかえり」と帰ってくる場所 山賊キャンプ

 山賊キャンプも折り返しを過ぎ、後半組にはいってきました。昨年とは違い、今年は雨が少なく、全国的な猛暑の影響でかなり暑い日が続いております。そのおかげでこどもたちは、思い切り川遊びを楽しんで過ごしています。

 ここ数年、わたしのキャンプでの役割が変わり、裏方で統括という仕事をしています。そのためキャンプの長老(ディレクター)は年々減って、今年は1本のみ。ひと夏8〜9本のキャンプをやっていた時は、リピーターのこどもたちの顔はほとんど分かっていたし、こどもたちからも「久しぶり!」と声を掛けられることも多かったのですが、今は、キャンプのこどもリピーターで顔がわかる子は少なくなりました。しかし、ここ最近は、相談員から声を掛けてくれることが増えました。
声を掛けてくれる相談員というのは、実は小学生のときに私と一緒にキャンプをやっていたこどもたちです。

 当時の面影を残していて、すぐにわかる子もいれば、雰囲気が変わったり、成長して大きくなり、すぐには思い出せない子など様々です。それでも名前がわかれば、あの時のキャンプはこんなことあったねと、想い出話に花が咲きます。うれしい反面、自分が年を取ったことを実感する時間でもあります。
 彼らにとって、この山賊キャンプは「ふるさと」のようなもの。いつ戻ってきても、「お帰り」と迎えられ、当時と変わらぬ山や川、そして星空、かつて自分たちがそうであったように、今のこどもたちも思い切り遊ぶ風景が残っているのです。
 
 10年前と比べて、私たちを取り巻く暮らしの環境は大きく変わってきました。しかし、山賊キャンプが大切にしていることはずっと変わりません。それは例えば「こどもが主役」や「働かざるものクウベカラズ」というオキテであったり、あるいは人それぞれの「違い」を認めて行こうという姿勢だったりするのでしょう。きっと彼らもここに来ると「ホッと」するのだと思います。何もかもが新しく、変化していくことが是となる世の中では、「何が大切なのか?」という生きていく上で、最も大切な足もとがグラついてしまい、不安になるのです。
「おかえり」と帰ってくる場所は誰もが変わってほしくはありません。だから「大切なものは変わらない」場所があることに、きっと彼らは安心を感じるのだと思います。

 彼らのようにボランティアとして帰ってくるこどもたちを含め、その保護者の方や地域の方、農家の方などたくさんの人に支えられて、山賊キャンプは成り立っています。私たちができる恩返しは、きっと、このキャンプをこれからも大切につないでいくことなのだと、改めてキャンプをしながら考えています。





2015年7月
 教育の力を信じて、夏キャンプもがんばります

 今年も夏のキャンプに参加するボランティア研修会を行いました。「自ら考え行動する」ボランティアを育てるため、研修会もボランティア自身が考えて行動するプログラムになっています。
その中で安全についてを考えるグループごとのワークショップがあり、まとめたものを発表してもらっています。今年はそこで驚くことが・・・。
 それはみんな発表が堂々としていて上手だったということ!要点をまとめ、言いたいことを的確に伝える。グループで考えたことを伝えるというのは、言葉で書く以上に難しいもの。特に高校生たちの発表がしっかりしていて驚きました。
数年前までは、この発表はみんなはずかしがったり、話すことがまとまっていなかったりと、研修会の中ではちょっと冗長なこともありましたが、それがない。これはなぜなのでしょうか?
 これは私の想像ですが、プレゼン能力やコミュニケーション能力などが足りない、社会では必要だという教育がされた結果なのではないでしょうか?

 ロストジェネレーション、ゆとり世代、さとり世代と言われ、その年代のこどもたちはそのレッテルに嫌気がさすこともあるかと思います。しかしそれぞれの世代の足りないことを次の世代(明確な区切りはありませんが)で取り戻そうという揺り戻しの中で教育はされているのではないかと思います。
 でもそう考えると、足りないことだけを意識した教育では、本当の意味で「教育でなにを目指すか?」は語られないように感じます。
教育で、こどもは変わり成長するということが明確な中で、我々教育に携わる人間は、その大きな影響力を今一度見直し、何を目指すかを語らなければならないなと感じています。

 今週末からいよいよキャンプがはじまります。たかがキャンプですが、私たちはこどもたちに「生きる本質」を伝えています。それは「仲間と協力すること」です。「仲間」とは小さな社会です。一人では決して生きられない我々人類は、仲間と協力することで生きていけます。しかし協力とは、一方的な「強要」や「搾取」の関係ではありません。お互いを尊重し、思いやることが本質のはずです。
今、世界はますます難しい局面を迎えています。こどもたちにこそ、その本質を伝えるべく今年のキャンプも、頑張ります!!





2015年6月
 便利さの裏にあるもの

 森のようちえんで使っている森に井戸が掘られました。
 これまでは水はタンクに入れて持ってくるしか方法がなく、キャンプをするとなると食器洗い、飲み水のために10分ほどかけて汲みに行かねばならない場所でした。
 そこへ念願の井戸!しかも水質検査をしたところ飲めるということがわかりました。
 早速、森のようちえんの活動で利用し、お茶を沸かし、煮炊きをし、こどもたちは嬉々としてポンプを動かし、その水で水路を作ったりと水遊びに興じておりました。
 いいことづくめの井戸…と思いきや、水が出たことで、今までなかった課題も出てきます。
 これまでは手洗いはウエットティッシュ、食器洗いは施設に戻ってから行っておりました。水が出るようになって利用するということは生活排水も出るということ。そしてその生活排水が、湧水が流れるせせらぎにそのまま流れてしまうという問題が出たのです。しかもこどもたちはそのせせらぎでで遊んだりもします。洗剤が入っている水をそのまま流すことは、当然ですが避けなければなりません。

 「便利」であるということは、どこかでひずみがでるものであり、今の当たり前の暮らしには、見えないだけであって、当然同じ問題が起こっているのだと、身を持って気づかされました。

 これは社会の至るところで起きています。例えば安い衣料品や食品、あるいは原発です。
 「便利」や「安い」ということは残念ながら今の社会で最も優先されます。しかし、その判断基準が正義になると、社会のひずみはどんどんと大きくなっていくように感じます。
 私たちの暮らしは自分ひとりや仲間数人の限られた関係性の閉じられた社会ではありません。社会は響きあい、影響しあって成り立っています。便利なことの裏に、誰かの苦悩や課題が生まれてしまうのであれば、それは大変な問題です。

 森を使うこどもたち、おとうさん、おかあさんとも、この問題に向き合っていくことが、社会を体験で知る一歩になるはずです。まずは足元から、この問題に取り組みます。





2015年4月
 30年目のだいだらぼっち 山村で学ぶことは?

 私が泰阜村に住んで10年が経ちました。10年一昔といいますが、その通りに社会はものすごいスピードで変化し、10年前には予想がつかない「未来」が訪れているように感じます。
 今やスマホが当たり前。どこにいてもネットとつながり、知りたいことがすぐに知ることができ、見たいものもすぐに見れます。しかもこれからは「ウエアラブル」という身につけられるコンピューターの時代。体の中の様子まで分かるようになるという急速な発達を見せています。
 いつでも誰かと繋がれる、いつでも知らないことが調べられる、将来の健康のリスクがわかる・・・時と場所を選ばず、何でもできる「自由」を獲得するための道具ですが、果たして本当に「自由」につながっているのでしょうか?
 
 ボランティアや研修に来る学生たちは活動を行っている数日間、携帯電話を禁止にします。「携帯ないとマジでムリ!」何が無理なのかはわかりませんが、彼らは一様に不安と困惑の表情を浮かべます。

 一方、だいだらぼっちに来たこどもは1年間の暮らしのが中で、自分たちの知恵と体、そして仲間と協力することを学びます。〇〇がないと××ができない。という考えから、「どうにかしよう。あるものでやってみよう。」とチャレンジと失敗をものともしなくなります。
 
 いったいどちらが自由なのか?
 技術が進歩して、10年前に想像もできないようなことが簡単にできるようになりました。しかし、家族で外食してもなにもしゃべらずスマホの画面に釘づけの家族。メールの返信で一日の大半の時間をつぶしてしまう若者。そんな姿を見ると便利さが「幸せ」につながっているわけでもなく、大事な何かを失ってしまうものなのだと思います。だいだらぼっちでは、不自由な暮らしの中で、確かな「幸せ」を積み重ねているように感じます。

 4月1日、30年目のだいだらぼっちがはじまりました。30年前の社会の課題と今の課題、ねっこはきっと同じものです。「本当の豊かさ」とは何か?こどもたちとまた一年間一緒に考えていこうと思います。









NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター
〒399-1801 長野県下伊那郡泰阜村6342-2  TEL : 0260(25)2851  FAX : 0260(25)2850


Copyright c NPO-GreenWood. All rights reserved