2011年9月5日
この不思議で奇妙で必然の縁 〜命日に脱稿となりました〜
以前このコラムでも紹介しましたが、現在、晩秋に出版される本の執筆の大詰めを迎えています。大詰めも大詰め、今日が脱稿の日です。
出版される本には、泰阜村の風土や文化から導き出した教育力によって事業を行い、支えあいの村づくりに挑戦してきたNPOグリーンウッドの25年の歴史と実践がまとめられています。
25年前にヨソモノがどのように過疎山村に入ったのか。
何を大事にして村の人びとから信頼されるようになったのか。
そこに生まれた苦しさや葛藤は何だったのか。
若者の職場をどうつくって運営・経営しているのか。
その教育実践が社会に果たす役割は何なのか。
そんなことが私の言葉で赤裸々に綴られています。
この本は私が執筆したのですが、8ヶ月もかかってしまいました。
実は夏には出版される予定だったのですが、執筆の最中に東日本大震災が発生し、スケジュールが頓挫してしまったのです。ひとつには震災により紙が流通しなくなる恐れがあり出版業界に慎重ムードが漂ったこと、もうひとつは出版社の担当者のご実家(宮城県塩竈市)が津波の被害を受け、それどころではないという雰囲気に陥ったこと。そしてもうひとつは私たちNPOグリーンウッドが本腰を入れた震災支援活動のため、私自身が執筆に時間を割けなかったことです。
言い訳はさておいて(笑)
泰阜村において四半世紀にわたって続けてきたNPOグリーンウッドの教育活動。その教育的意義、そして社会的意義が、果たして市井の人々に伝わるのでしょうか。そして、伝わるような噛み砕いた言い回しができるのでしょうか。
私たちの揺るぎない強い意志が試されています。磨かれた言葉の力が試されています。
一文字一文字の小さな力を侮るなかれ。私が渾身の力を振り絞って産み出しだ言葉には、この本の題材にもなる泰阜村の人びとの壮絶な暮らしの営みと、私の人生を支えてくれる多くの人びとの歴史が流れています。
今日9月5日、ようやく脱稿の運びとなりました。実際はまだまだ作業は積み残していますが、本文原稿はこれで私の手から離れます。
奇しくも今日9月5日は、三年前に他界した親父の命日でもあります。
私の親父の生まれ故郷は、朝の連続ドラマ「ちりとてちん」の舞台となった福井県小浜市の、山沿いに近い小さな集落です。親父は集落の青年団長に始まる長年の青年団活動から国政に身を転じ、常に青年や大衆といった弱者の立場に依拠した政治活動を進めてきました。また、世界一の原発集中立地といわれる若狭地域選出の政治家として、原発の安全性についても一貫して警笛を鳴らし続けてきました。
小さな田舎から大きい視点で社会を変革しようと生き続けた親父と、その親父を支えた名もなき大衆の未来に懸ける想い。私の身体にはその歴史が流れています。
親父がこの世を去った日に、私が渾身の力をその文字に込め続けた本が産み出されることは、不思議で奇妙で、それでいて必然の縁を感じます。
私も、ほうっておけば吹き飛びそうなへき地に身をおき、子どもたちや青年への教育に力を入れてきました。大局的な視野を持ちつつ、小さくとも社会を変える原動力となるような取り組みを強い意志を持って進めていきたい、そんな想いをこの本に込めています。
晩秋に「社団法人農山漁村文化協会」から出版予定です。ご期待下さい。
まずはこの場をお借りしまして、この執筆活動を支えていただいた皆様に深く御礼申し上げます。ほんとうにありがとうございました。
今日は、私を支えていただいたすべての人びとに感謝の気持ちを抱きつつ、脱稿のお祝いも兼ねて一献傾けながら亡き親父と会話したいと想います。 (代表 辻だいち)
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2011年8月15日
私のこどもたちへ 〜だいちからフクシマのこどもに贈る唄〜
この文章は、東日本大震災から5ヶ月目の8月11日付で「グリーンウッド震災支援ブログ」に掲載した私の記事です。すでに紹介された記事をこのコラムでもう一度紹介するということ、しかも8月15日に改めて紹介するということは、私の強い気持ちのあらわれです。ご容赦ください。
私は18年前、泰阜村に来ました。当時まだ22歳。右も左もわからない若造です。それまで札幌にある大学生でした。出身は福井県。高校から大学のときに、北陸から北海道へ。何が自分を北に向かわせたのでしょうか。
北陸と北海道で、私は、あふれるほどの自然の恵みと、すばらしいひとびとに出会いました。体育会の運動部に所属して「あきらめない気持ち」を鍛えられ、人と向き合うことを学問とする学部で「人間らしさとは何か」を学び(授業は全く出てませんでしたが!)、北海道の山々や田舎を訪ね歩きながら「自然と人間の共生」の重要さを心に刻みこんできました。
いつしか、自分が学び取ったことを、未来を生きるこどもたちに、自分のすべてを懸けて伝えようと思うようになり、体育の教員となることを目指すことになりました。
しかし、教室の中だけが教育の場だろうか、と疑問に思いました。まずは教室の外の学びの場を経験したいと強く思い、出会ったのが泰阜村でした。
18年前に、暮らしの学校「だいだらぼっち」のこどもたちと生活し始めましたが、その当時からよくギター片手にこどもたちと歌っていました。それまでどちらかというとニューミュージック系の曲ばかり弾いていましたが、泰阜に来て衝撃的な唄との出逢いがありました。
私の先輩であり当時代表の村上忠明さん(キャンプネームはむさし)がよくこどもたちに弾いたり、何気なく1人で弾いたりしていた曲に惹きつけられ、以来「これだ!」と自分でも弾くようになりました。
当時の信州こども山賊キャンプに来ていたこどもたちに向かって、キャンプ最終日に必ずこの唄を歌い、その想いを伝えてきました。当時、暮らしていた「だいだらぼっち」のこどもたちも耳にタコができるほど聞いたことでしょう。そして、薪ストーブを囲んでいつもこどもたちといっしょに歌っていました。 私は自分の息子の子守唄としても歌っています。
その唄を紹介します。
♪ 生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を
あなたに残しておいて やれるだろうか父さんは
目を閉じてごらんなさい 山が見えるでしょう
近づいてごらんなさい こぶしの花があるでしょう
生きている魚たちが 生きて泳ぎまわる川を
あなたに残しておいて やれるだろうか父さんは
目を閉じてごらんなさい 野原が見えるでしょう
近づいてごらんなさい りんどうの花があるでしょう
生きている君たちが 生きて走りまわる土を
あなたに残しておいて やれるだろうか父さんは
目を閉じてごらんなさい 山が見えるでしょう
近づいてごらんなさい こぶしの花があるでしょう ♪
曲名は「私のこどもたちへ」といいます。
泰阜村の自然を次の世代まで残せるのでしょうか。いや、残すのがわれわれ大人の責任で、その気持ちや自然の大事さをこどもたちに伝えたいと一所懸命歌ってきました。
今日、8月11日、東日本大震災から五ヶ月目です。
一ヶ月目の4月11日、宮城県南三陸町の歌津中学校にいました。
二ヶ月目の5月11日、東京の出版社との打ち合わせの場でした。
三ヶ月目の6月11日、琉球大学に呼ばれて沖縄にいました。
四ヶ月目の7月11日、再び被災地宮城県にいました。
そして、今日、8月11日、五ヶ月目にして初めて、泰阜村で迎えました。
明日、8月12日で、フクシマのこどもは全員、泰阜村を離れます。
泰阜村の自然の中で、青い空と満点の星空をみあげて深呼吸をし、透き通る清流で心ゆくまで魚を追い、顔にべったりと泥がつくほど転げまわったフクシマのこどもたち。
私は、その泰阜村に住む大人として、この唄をどうしても「きみたち」に贈りたい。
泰阜村に来て、震災であれだけ猛威をふるった自然が、本当はとてもすばらしものだということを、その小さな身体に刻み込んでいってもらえただろうか。
泰阜村に来て、フクシマでは接触を断たれつつある自然が、本当は私たちにかけがえのないものを教えてくれるものなのだということを、その小さな心に刻み込んでいってもらえただろうか。
泰阜村に来て、これからどんなに過酷なことに直面しても、生き抜くための「支え合いの気持ち」を、その小さな手に握ってもらえただろうか。
たった4日〜1週間のキャンプでは、何も変わらないかもしれません。でも、「きみたち」が過ごした泰阜村の土には、このきびしい山岳環境のなかで支えあいながら生き抜いてきた泰阜村のひとびとの、自然と共存する壮絶な歴史と日々の暮らしの営みが流れているのです。
その歴史と営みを受け取った「きみたち」は、きっと強くなれる。そう強く信じています。その「信じる想い」を載せた唄です。
この曲の作詞者は岐阜県中津川の方で、唄はマスメディアなどではなく手渡し口うつしで伝わっていくものと常々言っています。ずっとお会いしたいと思っていて、5年前に一度泰阜村でライブをやっていただきました。もう高齢だそうです。やはり手渡し口うつしで、自分がぼちぼちギターを弾いて、唄っていきたいと思います。
作詞者は「笠木透」という人です。
震災5ヶ月目の日に、フクシマのこどもたちに贈ります。
そして8月15日。敗戦の日に、そして東日本大震災で犠牲になられた方々の初盆に、全国の未来を生きるこどもたちへ贈ります。 (代表 辻だいち)
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2011年8月6日
タイガーマスクからフクシマ、そしてヒロシマへ 〜「核」から「支え合い」へ〜
覚えていますか。今年は「タイガーマスク」から始まったことを。日本全国に「善意の嵐♪」が吹き荒れたことを。
今年1月7日、年頭にあたり、このコラムに書いた文書から下記を引用します。
善意。なんともくすぐったく聞こえる言葉です。でも小さな小さなその善意を侮ることなかれ。小さな善意といえどもそれが集まれば、日本海がよみがえり、閉塞状況の日本を打破する雰囲気を創る原動力にもなるのです。全国のタイガーマスクによって「支え合い・助け合い」の善意を受け取った児童養護施設のこどもたちは、きっとゆるやかにそしてたくましく自立していくのだろうと確信します。
今年は、「世のため人のため」(もしかして私語に近いでしょうか)に、ほんの少しといえども発揮される善意を促していきたいものです。それを教育の立場、しかも「支え合い・助け合い」の文化が今なお息づく小さなへき地山村における小さな教育実践の立場から促すのが私たちの役目である、と1月7日に改めて強く思いました。
そして3月11日。未曾有の東日本大震災・そして福島原発大人災です。日本中が「支え合い」「助け合う」ことが試されました。
そして私たちNPOグリーンウッドも、「支え合い・助け合い」の文化が今なお息づく泰阜村から、小さな教育実践を通して「世のため人のため」に動くことが試されています。
今こそ、「支え合い」「助け合う」小さな村・泰阜村が、東日本の小さな地域を支えるのです。小さな地域が小さな地域を支える。いいじゃないですか。大きな都会が小さな地域を支える一方的な支援の限界は見えています。国道も信号もコンビニもない泰阜村。そんな弱い村が束になればいいのです。
私たちNPOグリーンウッドは、泰阜村行政や教育委員会、村の住民の皆さん、そして泰阜村を応援する村外の支援者の皆さんとともに、被災したこどもを暮らしの学校「だいだらぼっち」に長期で受け入れることや「信州こども山賊キャンプ」に招待することを決めました。
しかし、南信州で「だいだらぼっちに受け入れますよ」「山賊キャンプに招待しますよ」と叫んでいても、被災地からこどもがやってくるわけではありません。ただでさえ、親子が離れることに大きな不安を抱いている被災地の人たちです。一時期とはいえ、こどもを手離すことにはさらに大きな不安を抱くのは当たり前のことです。大事なことは、被災地の人たちと信頼関係を構築することです。
私は福島、宮城、岩手と、何度被災地に足を運んだことでしょうか。自分の持てる時間を相当つぎ込んだと想います。命と時間を削って被災地の人たちと対話を重ね、相互理解を通し、信頼を積み重ねていきました。
暮らしの学校「だいだらぼっち」に三人の被災児童を受け入れているのはすでにご紹介しているとおりです。
「信州こども山賊キャンプ」に招待しているのは、福島県いわき市、郡山市、田村市、二本松市、鮫川村のこどもたち50名です。
往復の送迎バスを担当する村教育委員会、こどもたちの野菜やお米を寄付する村の人びと、このキャンプを応援する村外にいる泰阜村ファンなどが、小さな財(気もち、食料、お金、時間、労力・・・)を持ち寄って、まさに「泰阜村総動員」で被災したこどもを支えます。
信州の小さな村が、東日本の小さな集落を支えます。しかも長期的に。「共助」と「支えあい」の泰阜村、本領発揮です。出番です。
泰阜村とNPOグリーンウッドは1995年、阪神大震災の被災児童を3年間という長期にわたり受け入れました。(のべ4人)、その被災児童が1997年の福井重油タンカー事故の時には私と一緒にボランティアに駆けつけ重油を掬いました。2005年には中越地震と福井豪雨の被災児童をやはりキャンプに招待しました。キャンプボランティアに駆けつけたのは阪神大震災で受け入れたこども(当時大学生)です。
時を超えて、被災したこどもが被災したこどもを支えます。距離を越えて、小さな山村が北陸や東北の小さな地域を支えます。
この素晴らしい16年の縁が、「お前、被災したこどものためにキャンプをやれ」と言われているようでなりません。私は、なにがなんでもこのキャンプを成功さ、フクシマのこどもたちに自然の素晴らしさ、人と人のつながりの素晴らしさ、そして生きぬくための「支え合い」の気持ちを伝えたい。もちろん、山賊キャンプに参加する全国のこどもたちにも。
8月6日現在、福島県いわき市のこどもたちが、泰阜村の自然と人情に包まれて、思い切りキャンプを楽しんでいます。
今年はタイガーマスクから始まりました。その「善意の嵐♪」はフクシマに向かっています。そして今日、ヒロシマの日。「支え合い・助け合い」の文化が今なお息づく泰阜村から、小さな教育実践を通して「世のため人のため」に動くことが、必ずや平和に連なっていくことを願います。
震災支援は、決して被災地への支援だけではありません。従来、日本社会、特に小さな農山漁村が持っていた「支え合い・助け合い・お互い様」の構造を、もう一度紡ぎ直し、再び安で平和な暮らしを創るという、広義でいう日本社会再生の取り組みなのだと思います。
フクシマとヒロシマは、決して「核」でのみつながるのではありません。「核」による平和から「支え合い」による平和へ。ヒロシマの日にもう一度、この国が大事にしてきた「支え合い」の気持ちを紡ぎ直し、平和に向けて思いを巡らせましょう。 (代表 辻だいち)
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2011年7月20日
講演・講義に東奔西走! 〜何に向き合う夏なのか〜
東日本大震災から4ヶ月。この間、私は震災支援のために、まさに東奔西走でした。時間と命を削ってきた感があります。詳しくは、NPOグリーンウッドの震災支援ブログを見てください。
その震災支援と同じくらい、というか併行して東奔西走してきたことがあります。講演・講義です。今年も全国のあちこちからお呼びがかかりました。NPOグリーンウッドの25年の教育活動の実績を普及することも私の役割の一つです。
すでにお伝えしている立教大学の非常勤講師で「自然と人間の共生」という授業を前期間受け持ちました。泰阜と大学=往復10時間を、毎週1回通い続けたのです。始まってみると1週間に一度の日が巡ってくるのが早いこと早いこと。授業が終わったら、すぐに次の授業の準備をしなければなりません。しかも、学生さんの数は2コマあわせて、420名超! これだけ多いと、伝えること自体にものすごい体力を使い、2コマ終わるころにはヘトヘトです。
東京までたいへん遠い泰阜村に住んでいると、東京に出たときが人と会ったり用件を入れるチャンス。授業がある日は、3限目(新座キャンパス)と5限目(池袋キャンパス)の2コマあるので、完全に1日がつぶれてしまいます。翌日東京で各種打合せ、ついでに震災支援関係の打合せで東北に行ったり、他の講演で地方に飛んだり・・・。
6月には「読売教育賞60回記念シンポジウム」において優良事例として登壇。琉球大学からは「ミラクル熟議in琉球」において全国の特徴的取り組みとして同じく登壇です。7月には「三遠南信教育サミット」においても南信州を代表する事例として同じく登壇しました。
立教大学と三つの講演はいずれも、NPOグリーンウッドが大事にしてきた「泰阜村の暮らしの文化に内在する教育力」を反映した教育実践が評価されたものです。
他にも安全管理やリスクマネジメントの関係で、6月には沖縄(さきほどの琉球大学とは別日程)と北陸福井には2回、7月には長野県松本まで足を運びました。もちろん、泰阜村のPTAの皆さん(私もですが)に夏のプール開放に備えた救命救急の講習も! 私たちの安全管理の底力が他の地域にいきるのかも試されました。
この講演・講義の合間に東北に5回も行っているのですから、身体がいくつあっても足りない思いです。丈夫に産んでくれたおふくろに今更ながらに感謝します。
そして同じ時期に大詰めを迎えた出版執筆(泰阜の風土や文化から導き出した教育力によって事業を行い、持続可能な地域作りに挑戦してきた25年の歴史と実践をまとめたもの)ですが、震災支援と講演・講義のダブルの東奔西走では筆が進むわけもありません。出版社の担当者には本当に申し訳が立ちません。
7月20日、立教大学の最後の授業が終わりました。毎週の上京が終わりほっとしたのでしょうか、その日の夜、泰阜村のバレーボール大会で足首に大ケガをしてしまいました。骨折に近い症状では、動くに動けません。
時間と命を削って東奔西走してきたこの4ヶ月。足首の大ケガを機に、まさに足元をしっかり見つめろ、ということなのかもしれません。
この夏は泰阜村で、走ってきた4ヶ月が産みだした震災支援の動きをしっかりと形にし、同じく走ってきた25年の成果をしっかりと文字と文章にすることに向き合う夏になりそうです。
つまりは自分としっかり向き合う夏です。 (代表 辻だいち)
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2011年6月23日
自然と人間の共生 〜福島市のこどもを山村留学で長期受け入れ決定〜
今年は、毎週東京に通っています。立教大学で非常勤の講義(2コマ)を受け持つことになったからです。科目名は「自然と人間の共生」。へき地山村:泰阜村に住む人々が営む自然と共存する暮らしや、その暮らしを大事にした教育活動を紹介しながら、今求められる自然と人間の関係性を考えるのが目標です。
今回は、ゲストスピーカーとして、泰阜村の猟師の方を連れて行きました。彼の生い立ち、仕事、趣味、人生観、自然と向き合う作法、獣害と人間の罪など、訥々とした語り口と、鹿の角や本物の罠などを見せたり実演したり。学生さんは完全に引き込まれていました。
学生さんの感想(リアクションペーパー)には「自然を利用させていただくという謙虚な考え方が必要という言葉が印象的だった」「自然には元に戻る力があるという言葉が心に残る」など多くの心を揺さぶられる表記があり、山村で泰然と生き抜く人の生の声から、特に東日本大震災で浮き彫りになった人間と自然との関係性のあり方を、深く考えるきっかけになったのだと思います。
当の猟師さんは「普通の暮らしを話しただけだけど、伝えたいと想っていたことがけっこう伝わるもんだな。またやってもいいな」と次に向けてやる気満々です。泰阜村が持つ教育力、そして村の風土に育てられた猟師の方の持つ教育力が、学生に向けて発揮された講義でした。私も感動しました。
この「村の教育力」を、今回の東日本大震災の支援に発揮させようじゃないか、そう強く想ってはじめたことが、NPOグリーンウッドの震災支援プロジェクトです。自然と人間の関係性のあり方、助け合い支えあいながら生きてきた暮らし、厳しい時こそこどもの教育に力を注ぐ気風・・・、すべて被災地に送り届けたいものばかりです。
大学の講義の後、この猟師の方と一緒に福島に入りました。NPOグリーンウッドが行う被災児童招待キャンプ(福島県のこども40人)の打合せのためです。地震、津波、原発事故、風評被害・・・、直面したことのない脅威にさらされて戸惑う小さな地域が東北のあちこちにあります。泰阜村の教育力を、今こそ発揮すべきと強く想うのです。
忘れ去られがちですが、今日6月23日は沖縄・慰霊の日。組織的沖縄戦の終結の日です。今日も沖縄の平和祈念公園では戦没者追悼式が行われているのでしょう。戦争の本質は、より弱いものが犠牲になる負の連鎖です。今回の震災でも、そういうことがないように、生産性がない、効率的ではないと切り捨てられてきた小さな山村から、いつの世も常に犠牲になるこどものために、声をあげ、行動を起こしたいものです。
その行動の一つがこれです。
6月13日から、暮らしの学校「だいだらぼっち」に1人の仲間が増えました。来年の3月まで、暮らしの学校「だいだらぼっち」に福島市の被災児童を受け入れることになりました。
風向きにより、放射線量が高い福島市や郡山市。そこに住むこどもたちの状況はのっぴきならない状況のようです。土に触ることを、草花に触ることを「止められ」てしまうこどもが、10年後、20年後にどのような成長を遂げるのか、本当に心配になります。
福島市からきたこどもは「一番やりたいことは、思いっきり川遊びをしたい」と、はっきり言っていました。そう、思いっきり川遊びのできるきれいなきれいな川を、次の世代に残すのが今の大人の責任です。彼女の言葉に、次世代への警告、そして叫びを感じます。
暮らしの学校「だいだらぼっち」のこどもたちも、彼女を仲間として迎え入れてくれました。女の子たちは、クッキーを作って歓迎したようです。この女の子の中に、被災して千葉から参加する女の子がいます。被災児童が被災児童を歓迎する。こどもの本質的な力を改めて感じる瞬間です。
実は会長のカニさん(梶さち子)と仲間のギック(大越慶)は、福島の出身です。不思議な縁を感じます。25年前に福島からこの泰阜村に根をおろしたカニとギック。時を超えて今、彼らが創った暮らしの学校「だいだらぼっち」に、福島のこどもが参加します。
泰阜村の自然の力、地域の人々の力、こどもの力、歴史の力・・・。泰阜村の力が総動員されて、福島市のこどもをあたたかく包み込みます。
震災支援を通じて思います。自然と人間がどういう関係であるべきなのか、を。これからの時代に、しっかりと考え、伝えていかなければならないと改めて思います。
(代表 辻だいち)
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